みちのくの山野草

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看護婦Tの証言

2015-09-03 08:30:00 | 昭和3年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 前回私は、
 安藤のぶが賢治の付き添い出張看護をしたのは昭和3年12月半ば~明けて1月半ばの〝30日間〟であった。……❺
 これに伴って、佐藤隆房自身の記述から窺えるその頃の賢治の病状について、
・12月に入る前までは、「療養の傍菊造りなどをして秋を過ごしました」ということであり、「たいした発熱があるというわけではありませんでした」。
・12月に入ると、「どうにも普通のやうではなくなつてをりました」ということであり、「突然激しい風邪におそわれまして、それを契機として急性肺炎の形となりました」。
というように下した私の判断は妥当なものであったということがこれで裏付けられた。ただし、安藤のぶと中村ノブの証言があるとはいえ、この人たちは同一人物なのだからその証言の信憑性が問題だという指摘もあろう。次回はそのことに関して述べてみたい。
としめくくったので、今回はそのことについて述べたい。

 実はこのことに関しては別の看護婦Tの証言もあるから、〝❺〟などの裏付けが取れる。というのは、大八木敦彦氏は『病床の賢治』で次のようなことを紹介しているからだ。なお、この紹介内容は大八木氏が2007年(平成19年)10月に、かつて賢治の付き添い出張看護をしたという当時98歳の女性Tから聞き取ったものであるという。
 その際に、Tはたとえば
(1) 二十歳になったばかりの頃、宮澤さんが病気になったのでそちらへの付添の話が来たんです。
 宮澤さんは私より、歳は十二、三くらい上でないかなあ。友達のAさんとふたりでいくことになって、交代で付き添いしましたね。宮澤さんのお宅に泊まり込みでした。宮澤さんは家の二階に寝ておられました。私たちは六畳か八畳か忘れましたが、部屋をもらいました。付添といってもたいした用事はありませんでしたねえ。宮澤さんは風邪をひいて、肺炎をおこして寝ていらっしゃるようでした。
               <『病床の賢治』(大八木敦彦著、舷燈社)10pより>
とか、 
(2) 花巻共立病院の院長先生が、自宅と病院の行き帰りに必ず宮澤さんのお宅の前を通るわけです。院長先生と宮澤さんと親しくなっていて、それでちょくちょく宮澤さんの所へ寄って診察なさってました。そういう時に私たちが介助しました。
               <前掲書11pより>
ということなどを大八木氏に語ってれたという。
 また、『看病はどのくらいの間なさってましたか?』という大八木氏の質問に対しては
(3) 十二月から一月くらいまでだったでしょうか。二ヶ月ほどやっていたわけですね。
              <『病床の賢治』(大八木敦彦著、舷燈社)13pより>
と、同じく『他に賢治のことで覚えていることは何かありませんか?』という質問に対しては
(4) 付き添いが終わって最後に帰る時に、宮澤さんが本を下さいました。いろいろお世話になりました。とおっしゃってね。私とAさんとふたりで交代に付き添いをしていたんですが、本をもらったのは私だけでしたよ。どういうわけでしょうかねえ……。
               <前掲書14pより>
と、それぞれ証言してくれたという。
 したがって、
 賢治に対する看護婦Tの付き添い出張看護期間は昭和3年12月~昭和4年1月の約2ヶ月間であった。
と答えていたことになる。

 なお安藤のぶの場合は、付き添い出張看護を2人でしたということについては言及していないが、こちらの看護婦Tは「友達のAさんとふたりでいくことになって、交代で付き添いしましたね」とか「私とAさんとふたりで交代に付き添いをしていたんですが、本をもらったのは私だけでしたよ」というようにAさんに関する具体的なTの証言がいくつかあるので、
    賢治に対する付き添い出張看護は2人で行った。
ということもほぼ事実であったであろうと考えられる。
 一方、『宮沢賢治の道程』によれば、
 安藤のぶは三十日間の出張看護を務め、賢治の危急に付添い看護したあと白鳥みさおと交替したのであった
             <『宮沢賢治の道程』(吉見正信著、八重岳書房)260pより>
ということでもある。
 したがって、賢治の付き添い出張看護をした看護婦としてはとりあえず
  ・安藤のぶ看護婦
  ・白鳥みさお看護婦
  ・A看護婦
  ・T看護婦
の4人が考えられるが、この4人のうちの白鳥は安藤の後任であるということであり、白鳥以外の他の3人の看護婦は前任者から付き添い出張看護を引き継いだということは証言していないし、併せてこの〝Aさん〟の〝〟とはまさしく安藤のイニシャルであることからも、
   安藤のぶ看護婦=A看護婦
が成り立つだろう。しかも、上掲書においてA看護婦とT看護婦は別人であることが判る記載もあるから、
   安藤のぶとT看護婦の二人で昭和3年12月半ばから賢治の付き添い看護をした。
   安藤のぶは約〝30日間〟その付き添い看護をした後に白鳥みさお看護婦にバトンタッチをした。

ということも言えるだろう。それに伴って、
 八月十日からの《四十日》は、佐藤隆房花巻病院長の判断で、看護婦を宮沢家に派遣することにしたのである。……①
というこはどうやら事実であったとは言えなさそうだ。つまり、この〝①〟については、佐藤隆房も、前掲の看護婦のいずれも証言しておらず、〝八月十日からの《四十日》は、〟の部分はあくまでも吉見正信氏自身の判断ということのようだ。

現時点での私の結論
 したがってここまでの検討結果からは、その真実は、
 佐藤隆房花巻病院長の判断で、賢治の付き添い看護婦を宮澤家に派遣することにしたのは昭和3年12月半ばになってからのことであり、その頃以降賢治の病状はかなり重篤であった。
ということになろう。言い換えれば、 
賢治の付き添い出張看護が始まったのは昭和3年の12月半ばである。
その12月に入る前までの賢治は、「療養の傍菊造りなどをして秋を過ごし」たが「たいした発熱があるというわけではありませんでした」。すなわち、それまでの賢治は重篤ではなかった。
という蓋然性が極めて高いことになった。
 というわけで、私は吉信氏の記述〝①〟を知って
    賢治は昭和3年8月10日から実家にもどって「蟄居・謹慎」していた。
という私の仮説があえなく棄却されてしまうのではなかろうかと一時焦ってしまい、不安になってしまったが、どうやらそれは杞憂であったようだ。
 一方で、昭和3年9月23日付高橋武治宛書簡(243)中の、
    八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが
という賢治の記述は裏付けが取れない限りは、「八月十日から」はさておき、少なくとも「丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが」をこのまま信ずるわけにはいかなくなったとならざるを得ない。つまり、昭和3年8月10に下根子桜から豊沢の実家に戻ったといわれている賢治だが、「八月十日から丁度四十日の間」賢治は重篤だったということはこの記述からだけでは担保されないということになった。

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