9月11日桜地人館を訪れた。かつては佐藤郷志館と言っていたはずだが、いまは”桜地人館”と言うようだ。宮沢賢治と親交のあった佐藤隆房が個人的に創った展示館で、賢治の資料を初め高村光太郎、万鉄五郎そして船越保武の作品等が展示されている。
頭を傾げるのは、賢治詩碑の近くに建っていて賢治の資料が展示されており、かつ、賢治の主治医でもあった佐藤隆房が創った展示館なのに、世間にはあまり知られていないような気がする。
因みに、ガイドブック『賢治のイーハトーブ』には”桜地人館”の紹介は全くない。なぜなのだろうか。
まず、次の場所に寄りたい。
《1 稗貫農学校跡》(平成20年9月11日撮影)
賢治が奉職した稗貫農学校(大正10年開校、10年12月に着任、校舎が移転されるまでの1年4ヶ月ここで教鞭をとる)があったところである。
《2 その説明文》(平成20年9月11日撮影)
農学校の跡地は現在は総合花巻病院の一部になっている。大正13年この病院の中庭に賢治花壇を設計したのだが、その情景が『花壇工作』に詠われている。その詩の中には、院長に対する賢治の心情が吐露されており、賢治の性格の新たな一端を知ることが出来る。その院長こそ佐藤隆房である。その後、隆房と賢治は親交を深めていったし、隆房は賢治の主治医となってもいった。
なお、現在はその花壇がファンタジー花壇として復元されている。
また、隆房は昭和17年、その当時は賢治の生涯を知ることの出来る書籍は皆無だったので、自ら著書『宮沢賢治』を冨山房から出版したのだという。
《3 花巻共立病院(現在は総合花巻病院)》(平成20年9月11日撮影)
佐藤隆房は大正12年花巻川口町に創立、この病院の院長・理事長であった。宮沢賢治の最期を看取った主治医でもあり、第二次世界大戦時には宮沢家共々光太郎を花巻に招き、一時は光太郎を自宅の離れに住まわせていたとのこと。
《4 病院内の隆房の句碑》(平成20年9月11日撮影)
隆房の俳号は”二岳”という
《5 〃詩碑》(平成20年9月11日撮影)
病院を後にして、羅須地人協会跡へ向かう。
《6 賢治詩碑バス停からの道》(平成20年9月11日撮影)
上の写真の中央に見えるのが下の
《7 同心屋敷》(平成20年9月11日撮影)
右に見えたのが次の
《8 『おくら』》(平成20年9月11日撮影)
である。
この『おくら』とは羅須地人協会に付属していた建物で、羅須地人協会が移転するときに、これを譲り受けた近所の青年がひそかに保存していたもので、その経緯が明らかになったことから、地元の有志が相計ってゆかりの建物としてこの場所に復元したのだという。肥料や農具を入れておくとともに厠としても使っていたようだ。
《9 ”宮澤先生遺墨の店”と書いてある?『おくら』》(平成20年9月11日撮影)
《10 おくらの由来の説明板》(平成20年9月11日撮影)
《11 賢治詩碑・同心屋敷駐車場》(平成20年9月11日撮影)
向こうのこんもりした林が賢治詩碑のある場所だ。
《12 宮澤賢治詩碑まで200mの案内標識》(平成20年9月11日撮影)
何かで、賢治は猫が嫌いだったと書かれていたような記憶があるが、もしそうだとすれば猫の案内に苦笑しているか?
《13 詩碑への道》(平成20年9月11日撮影)
《14 〃 》(平成20年9月11日撮影)
《15 〃 》(平成20年9月11日撮影)
《16 〃 》(平成20年9月11日撮影)
《17 弥助橋跡》(平成20年9月11日撮影)
賢治の作品「春と修羅・第三集」所収の「饗宴」の題材になった弥助橋の跡地である。
《18 まもなく賢治詩碑入り口》(平成20年9月11日撮影)
《19 この先を右に折れれば詩碑入り口》(平成20年9月11日撮影)
《20 その反対側にあるのが桜地人館》(平成20年9月11日撮影)
《21 その門》(平成20年9月11日撮影)
《22 桜地人館》(平成20年9月11日撮影)
《23 母の詩碑案内》(平成20年9月11日撮影)
《24 母の詩碑》(平成20年9月11日撮影)
地元に住んでいる私でさえも、桜地人館の敷地内に賢治の”母”の碑があるなんて今までちっとも知らなかった。
《25 桜地人館脇の佐藤隆房銅像》(平成20年9月11日撮影)
《26 桜地人館玄関》(平成20年9月11日撮影)
下根子桜にあった”羅須地人館”もいまは他所へ移転してしまい、跡地にあるのは賢治の詩碑だけになったしまっただけに、賢治を慕って下根子桜を訪れた人は多少がっかりするのではなかろうか。
願わくば、羅須地人協会の建物は元々あったところに戻してほしいものだが、いまのところ桜に戻す動きはないようだから、ここを訪れた人は”桜地人館”を訪れてみるといいと思う。
佐藤隆房と賢治の関係する資料などを見ることが出来るからである。また、桜地人館内では、雨ニモマケズ詩碑除幕式当日(昭和11年11月21日)の映像を見ることが出来る。その映像の中には、賢治の父や母、清六、草野心平、森荘巳池、佐藤隆房の姿が出てくる。
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頭を傾げるのは、賢治詩碑の近くに建っていて賢治の資料が展示されており、かつ、賢治の主治医でもあった佐藤隆房が創った展示館なのに、世間にはあまり知られていないような気がする。
因みに、ガイドブック『賢治のイーハトーブ』には”桜地人館”の紹介は全くない。なぜなのだろうか。
まず、次の場所に寄りたい。
《1 稗貫農学校跡》(平成20年9月11日撮影)
賢治が奉職した稗貫農学校(大正10年開校、10年12月に着任、校舎が移転されるまでの1年4ヶ月ここで教鞭をとる)があったところである。
《2 その説明文》(平成20年9月11日撮影)
農学校の跡地は現在は総合花巻病院の一部になっている。大正13年この病院の中庭に賢治花壇を設計したのだが、その情景が『花壇工作』に詠われている。その詩の中には、院長に対する賢治の心情が吐露されており、賢治の性格の新たな一端を知ることが出来る。その院長こそ佐藤隆房である。その後、隆房と賢治は親交を深めていったし、隆房は賢治の主治医となってもいった。
なお、現在はその花壇がファンタジー花壇として復元されている。
また、隆房は昭和17年、その当時は賢治の生涯を知ることの出来る書籍は皆無だったので、自ら著書『宮沢賢治』を冨山房から出版したのだという。
《3 花巻共立病院(現在は総合花巻病院)》(平成20年9月11日撮影)
佐藤隆房は大正12年花巻川口町に創立、この病院の院長・理事長であった。宮沢賢治の最期を看取った主治医でもあり、第二次世界大戦時には宮沢家共々光太郎を花巻に招き、一時は光太郎を自宅の離れに住まわせていたとのこと。
《4 病院内の隆房の句碑》(平成20年9月11日撮影)
隆房の俳号は”二岳”という
《5 〃詩碑》(平成20年9月11日撮影)
病院を後にして、羅須地人協会跡へ向かう。
《6 賢治詩碑バス停からの道》(平成20年9月11日撮影)
上の写真の中央に見えるのが下の
《7 同心屋敷》(平成20年9月11日撮影)
右に見えたのが次の
《8 『おくら』》(平成20年9月11日撮影)
である。
この『おくら』とは羅須地人協会に付属していた建物で、羅須地人協会が移転するときに、これを譲り受けた近所の青年がひそかに保存していたもので、その経緯が明らかになったことから、地元の有志が相計ってゆかりの建物としてこの場所に復元したのだという。肥料や農具を入れておくとともに厠としても使っていたようだ。
《9 ”宮澤先生遺墨の店”と書いてある?『おくら』》(平成20年9月11日撮影)
《10 おくらの由来の説明板》(平成20年9月11日撮影)
《11 賢治詩碑・同心屋敷駐車場》(平成20年9月11日撮影)
向こうのこんもりした林が賢治詩碑のある場所だ。
《12 宮澤賢治詩碑まで200mの案内標識》(平成20年9月11日撮影)
何かで、賢治は猫が嫌いだったと書かれていたような記憶があるが、もしそうだとすれば猫の案内に苦笑しているか?
《13 詩碑への道》(平成20年9月11日撮影)
《14 〃 》(平成20年9月11日撮影)
《15 〃 》(平成20年9月11日撮影)
《16 〃 》(平成20年9月11日撮影)
《17 弥助橋跡》(平成20年9月11日撮影)
賢治の作品「春と修羅・第三集」所収の「饗宴」の題材になった弥助橋の跡地である。
《18 まもなく賢治詩碑入り口》(平成20年9月11日撮影)
《19 この先を右に折れれば詩碑入り口》(平成20年9月11日撮影)
《20 その反対側にあるのが桜地人館》(平成20年9月11日撮影)
《21 その門》(平成20年9月11日撮影)
《22 桜地人館》(平成20年9月11日撮影)
《23 母の詩碑案内》(平成20年9月11日撮影)
《24 母の詩碑》(平成20年9月11日撮影)
地元に住んでいる私でさえも、桜地人館の敷地内に賢治の”母”の碑があるなんて今までちっとも知らなかった。
《25 桜地人館脇の佐藤隆房銅像》(平成20年9月11日撮影)
《26 桜地人館玄関》(平成20年9月11日撮影)
下根子桜にあった”羅須地人館”もいまは他所へ移転してしまい、跡地にあるのは賢治の詩碑だけになったしまっただけに、賢治を慕って下根子桜を訪れた人は多少がっかりするのではなかろうか。
願わくば、羅須地人協会の建物は元々あったところに戻してほしいものだが、いまのところ桜に戻す動きはないようだから、ここを訪れた人は”桜地人館”を訪れてみるといいと思う。
佐藤隆房と賢治の関係する資料などを見ることが出来るからである。また、桜地人館内では、雨ニモマケズ詩碑除幕式当日(昭和11年11月21日)の映像を見ることが出来る。その映像の中には、賢治の父や母、清六、草野心平、森荘巳池、佐藤隆房の姿が出てくる。
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