《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
では、昭和3年11月分について賢治の営為と詠んだ詩等を『新校本年譜』から以下に抜き出してみる。すると何と、一一月二五日(日) 「佐々木喜善日記」に賢治あて出状の記事がある。
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)より>のたった一項目だけである。そしてこの脚注が付記してあるのだが、それは「花巻の宮沢賢治氏に原稿のことで出状した」というものにすぎない。なお、詠んだ詩についても前月同様で、8月以降ぷっつりとその記載は相変わらず途絶えている。
したがって、この年の11月の賢治は殆ど透明な存在である。さりながら、先に示したように賢治に対して付き添い看護が始まったのは12月半ばからと判断できるのだから、それまでは少なくとも病臥してばかりいたとも考えられない。となれば、この年の11月頃の賢治は身体的にというよりは、精神的にも参っていたということも考えねばならないのだろうか。先の9月23日付澤里武治宛書簡243に「演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります」としたためた賢治はこの当時一体どうなっていたのだろうか。
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