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みちのくの山野草

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「羅須地人協会時代」の稲作指導の裏付け

2016-09-03 08:30:00 | 「羅須地人協会時代」検証
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 さてこれで、「羅須地人協会時代」の賢治は、少なくとも農閑期を中心として肥料設計や肥料相談に熱心だった時があったことは明らかになった。では、同時代の農繁期の賢治の稲作指導は具体的にはどのようなものであったのだろうか。

 そこで、「羅須地人協会時代」の賢治が農繁期の稲作指導のために東奔西走したであろうことを裏付けてくれそうな過去の資料等を渉猟してみたところ、その候補群を時系列に従って並べてみるとほぼ以下のようなものとなる。ただし私が調べてみた限りでは、明らかに気象面や稲作被害等で事実誤認をしている個所は赤文字<*1>に、そしてこれまた同様に、気象面から、あるいは新聞報道等によればあくまでも推定である個所、あるいは「羅須地人協会時代」としては当て嵌まらない蓋然性が高い個所はともにピンク色の文字にしてある。

【リスト1:「羅須地人協会時代」の賢治が農繁期の稲作指導のために東奔西走したであろうことを裏付けてくれそうな過去の資料等】
① (昭和2年)七月の末の雨の降り樣について、いままでの降雨量や年々の雨の降つた日取りなどを聽き、調べて歸られた。昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。そのときもあの君はやつて來られていろいろと話しまた調べて歸られた。<『宮澤賢治研究』(草野心平編、昭和14年)所収「測候所と宮澤君(福井規矩三)」>
② 又或る七月の大暑当時非常に稲熱病が発生した爲、先生を招き色々と駆除豫防法などを教へられた事がある。
 先生は先に立つて一々水田を巡り色々お話をして下さつた。先生は田に手を入れ土を壓して見たり又稻株を握つて見たりして、肥料の吸収状態をのべ又病氣に對しての方法などわかり易くおはなしゝて下さつた。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、昭和14年)所収「ありし日の思ひ出(平来作)」>
③ 飯豊の役場近くになつた田圃道にさしかゝつたとき、頰かむり懐手して馬に手綱を頸にかけて、呑氣に馬をひいて來る五十歳許りの親爺さんに出逢つたのです。通りかゝるとき、
「おまへさんの田コ、この近くだんすカ」
 雪溶けの水でザンブと浸つてゐた田に手を突込んで、眞黑な土を取り出して、指でこすつてみたり、水洗ひして、掌でよく觀察してをつたやうですが
「去年の稻なじょだつたス」
「…………………………」
「肥料何々やつたス
 金肥なじよなのやつたス」
「…………………………」
 尚も掌の土をこまごまと調べてをつたのですが、
「それぢア、今年の肥料少し考へだほーよがんす」
「………………………………」
「………………………………」
 汚くなつた手をザブザブと無雜作に洗ひ流してゐました。
 親爺さんは、
「おまへさん、どこの人だんス」
「近くの町の人ス」
 先生はかうして一百姓に、今年の取るべき稻作方法を教へたのですが、懇ろに教へ導いて行く樣子は、誠に快い感じを與へてくれるのでした。気障ではなく、心の奥底から迸る誠意の言葉であつたのです。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、昭和14年)所収「宮澤賢治先生(照井謹二郎)」>
④ その年(昭和3年:投稿者註)は恐ろしく天候不順であった。先生はとうに現在を見越して、陸羽一三二号種を極力勸められ、主としてそれによつて設計されたが、その人達は他所の減収どころか大抵二割方の增収を得て、年末には先生へ餅を搗いて運ぶとか云つてみんな嬉しがつてゐた。たゞだそれをきかずに、又品種に対する肥料の参酌せずに亀の尾一號などを作られた人々は若干倒伏した樣だつた。それは極めて少數だつたが、他人を決して憾まなかつた先生は大いに氣に留められ、暑い日盛りを幾度となくそれらの稻田を見廻られた。<『宮澤賢治研究』(草野心平編、昭和14年)所収「石鳥谷肥料相談所の思ひ出(菊池信一)」>
⑤ 五日間ほどでその相談所(塚の根肥料相談所:投稿者註)を閉ぢましたが、苗が水田に移されて大分經つた頃、賢治さんはこの地方の稻草の状況を視察に來たらしく、ひよつこり教え子の菊田の家に立ち寄りました。
「この邊を濟まないが案内して下さい。」
 焦げ穴のあるヅボンにゴム靴を履いた賢治さんは、行く先々でゴム靴を脱いで田の中に入り、手をつゝこんで水溫地中溫を調べ、莖をたはめて稲の強さを計り、その缺點を指摘し、處理すべきことをいひ付けて行きます。その後は九月まで一人で來て、その地方の田を幾囘見廻つたか判りません。大變な責任をもつたものです。
<『宮澤賢治』(佐藤隆房著、昭和17年)178p>
⑥ 賢治氏は稲作の指導といふよりはもつと根本的な土壌の改良、肥料の設計、勞働の能率等について、農村自體の向上のために非常な努力を拂はれました。齋藤彌惣さんの家にも年々二度位づゝわざわざ出かけて行き、その直接の指導にあたりました。
 鍋倉は町から近道を行けば約一里半ですが、賢治氏は志戸平温泉へ行く方の道、つまり縣道を眞直ぐに行つて、途中上根子や二ツ堰のの人たちを訪問し、その足で鍋倉へ行きました。鍋倉を終ると、湯口村の隣の湯本村へ行つて、小瀬川などを訪問して歸るのであります。…(投稿者略)…
 賢治氏はそれから齋藤さんと畠へ出て行きそのへんの土を手にとりながら、土壌改良法に就いて、齋藤さんに解り易い言葉を以て叮寧に説明します。
<『宮澤賢治素描』(関登久也著、昭和18年)3p~>
⑦ 羅須地人協会ができるとともに、宮澤先生のお仕事は、ひろくふかくなつて來ました。花巻の町や、花巻の近くの村に、肥料相談所をつくりました。みんなただで、稻のつくり方の相談所をひらいたのです。そこで相談しただけでありません、來たひとびとのたんぼは秋のとり入れのときまで、見てまはつて、これはああすればよい、これはかうすればよいと、教へたのです。ときには、村村へ行つて、稻作の講演会もひらきます。もちろん、ただの一銭もお金はもらひません。<『宮澤賢治』(森荘已池著、昭和18年)175p>
⑧ ひでり、大根、稻に害のある虫、寒い夏、洪水、昭和二三年のころには、こんな天災が、多かつたのです。そのたびに、宮澤先生は村村をかけまはつて、それをふせぐにはどうしたらよいか、お百姓さんたちに教へてまはりました。<『宮澤賢治』(森荘已池著、昭和18年)201p>
⑨ 賢治は大正十五年年三十一歳の時、それまで勤めていた花巻農學校教諭の職を辞し、町外れの下根子桜という地に自炊をしながら、附近を開墾して半農耕生活を始めたのでありますが、やがてその地方一帯の農家のために数箇所の肥料設計事務所を設け、無料で相談に応じ、手弁当で農村を廻っては、稻作の実地指導をしていたのであります。昭和二年六月までに肥料設計書の枚数は二千枚に達していたそうで、その後もときに断続はありましたけれども、死ぬまで引続いてやつていたのであります。しかもそういう指導に当っては、自らその田畑の土を取って舐め、時に肥料も舐めた。昭和三年肺炎で倒れたのも、気候不順による稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走したための風邪がもとだったのでありまして、その農民のための仕事を竟に死の床までもちこんだのであります。<『宮沢賢治の世界』(谷川徹三著、法政大学出版局、昭和45年)所収の16p~の「雨ニモマケズ」(昭和19年9月20日に東京女子大における谷川の講演)>
⑩ 単に肥料や土壌のことばかりではなく、出來得るだけ農家自體の内容を聞いて、善處させるやうに智恵を借(ママ)してをりました。…(投稿者略)…「齋藤さんとこの苗代は、苗代の位置が惡いし、芝垣も生えて日蔭になるから苗の生長もよくない。併し苗代を變へることはさう簡単にゆかないでせうから、來年はあそこの苗代を先づ半分こちらへ移し、翌年はまたかへてゆくやうにしてごらんなさい。」と親切に教へてくれました。<『宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社、昭和22年)>
⑪ 稻作相談所というのもやつた。これも肥料設計と同樣に、いっさい謝禮というものをうけとらなかつた。何里の道でも、じぶんでおべんとうをもつてあるいて出かたのである。私のきいたところによると、汽車で二時間もかかるところさえも徒歩でいつている。
 昭和二年は、風水害、蟲害、冷害、いろいろの凶作的現象がいちどにおしよせた年であるが、このときの彼の活動はすさまじいものがあつた。そしてとうとう稻作指導にでたとき、大雨にぬれてかえつたことから肺炎になつて病床の人となったのであつた。
<『宮澤賢治研究』(古谷綱武著、日本社、昭和23年)68p>
<投稿者註> 著者の古谷は、「森惣一は、さすがに身ぢかにくらしたひとのとどいた理解をもつて、この脱皮え(ママ)の「遷移」を私たちにあかしてくれている」と前置きしてからこのことを述べているので、これは森荘已池が語っていたものであるということになろう。
⑫ 賢治の住んでいる下根子はじめ花巻あたりでは、春に田に種もみをまいてから、四十日目くらいに田植えをする習慣があつたが、賢治は、種もみをまいてから五十日目から、五日間位で植えるようにと教えている。
 何故かというと、四十日で植えてしまうと、田によけいに肥料がいるからであると教えている。
「田の草は一箇月のうちにみなとつてしまつて、あとは田んぼの中にはいつてはいけない。稻の根を切つてはいけない。一本でも稻の根を切ると、もう一粒だけ、實の入らない粒が出る。」
 と、いふように、まつたくこまかなところまで、ていねいに教えている。
 水が冷たいので、どうしても思つたよりも米の収穫の少ないといつて指導をうけにくる農民には、
 「苗をうすくまいてね、つよくそだてて、三本くらい一株にしてやつてみて下さい。」
 と懇切な指導をしてくれるのである。
 田んぼに、硫安を使うひけつを質ねると、
  「ああ、それは雜作もないことですね。硫安を土に混ぜ、その土を田にまけば、硫安は土と共に田の底に沈み、田に水のある場合も流れず、まきちらした硫安の効果は充分にあがるわけです。もちろん、田植えをした後の田にまくのですね。」
 こうした技術指導が、手にとるように行われたのである。賢治が、花巻近郊の農民から「肥料の神さま」といわれるようになつたことは當然なことであろうとおもう。
<『宮澤賢治 作品と生涯』(小田邦雄著、新文化出版、和25年)227p~>
⑬ 「齋藤さん、今年の稻の丈は去年よりどうですか。」と聞くと、齋藤さんはあいまいな面持ちをして、「どうもそこまで計つて見たこともありません。」といひますと、賢治氏は面を柔らげ「それは困りますね、農村人が他の文化より遲れてゐるやうにいはれたり、事実割の惡い貧乏に甘んじなければならなかつたりすることは、色々の社會的な關係もありませうが、農村自体がもつと聰明にならなければならない。唯昔からありきたりの習慣制度を守つただけで年月を過ごすやうでは、いつまでたつても、不遇の位置から逃れることは出來ません。それには心を、土壌にも肥料にも天候にも又農業に必要な知識へぴつたりと向けて、一日々々を大事な日として良い方へ向けてゆくより外に仕方がないのです。…(以下略)…」<『雨ニモマケズ』(小田邦雄著、酪農学園出版部、昭和25年)192p~>
⑭ 「昨年の稲作は案外よくまことに安心いたしました。それはあの天候に対して燐酸と加里が充分入つてゐたのが効いたのでせう。
 今年も昨年通りでいゝと思ひますが、なにぶんどの肥料も高くなつてゐますから、もしもつと安くしやうと思へば次の通りになります。但し結局は昨年通りが得でせう。」
 ◎肥料も大事ですがだんだん深耕してまだまだとる工夫をしませう。
<『雨ニモマケズ』(小田邦雄著、酪農学園出版部、昭和25年)205p~>
⑮ ある時などは、肥料を入れたばかりの田の水へ手を入れ、温度を計つてみられたり、土をつまんで舌の上でなめてみられたり、おそらくどこの先生だつてやりそうもない事をやつて、農業の原理を教えて下さるのでした。
 ある七月の無類に暑い時、稲熱病が発生したので、先生をお招きして、駆除予防法を教えられたこともあります。
 そんな時も、先生は田に手を入れて土を押してみたりして、肥料の吸収状態をのべたり、病気に対しての方法など、わかりやすくお話しして下さいました。
<『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年)212p>
⑯ (昭和2年)七月一九日(火) 盛岡測候所福井規矩三へ礼状を出す(書簡231)。福井規矩三の「測候所と宮沢君」によると、
昭和二年はまた非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった。その時もあの君はやつて来られていろいろと話しまた調べて帰られた。」
<『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房、昭和52年)620p>
⑰ (昭和3年)七月 平来作の記述によると、「又或る七月の大暑当時非常に稲熱病が発生した為、先生を招き色々と駆除予防法などを教へられた事がある。…(投稿者略)…おはなしゝて下さつた。」
とあるが、これは七月一八日の項に述べたことやこの七、八月の旱魃四〇日以上に及んだことと併せ、この年のことと推定する。
<『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房、昭和52年)633p~>
⑱ 一九二八年の夏、周囲の田に稲熱病が発生、賢治はあちこち走りまわって、病気駆除の指導をしてまわったが、遂に八月十日高熱に倒れ、それから四十日間熱と汗に苦しんだ後、両側浸潤と診断された。<『宮澤賢治論』(西田良子著、桜楓社、昭和56年4月)91p>
⑲ (昭和2年)五月から肥料設計・稲作指導。夏は天候不順のため東奔西走する。…(投稿者略)…
 (昭和3年)七~八月、稲熱病や旱魃の対策に奔走、八月発病病臥。
<『新編銀河鉄道の夜』(新潮文庫、平成元年)所収年譜>
⑳ その上、これまた賢治が全く予期しなかったその年(昭和2年:投稿者注)の冷夏が、東北地方に大きな被害を与えた。彼は測候所へ出かけて記録を調べたり、天気予報をきいて、対策に走りまわった。けれどもその結果は、次の詩が示すとおりである。<『宮沢賢治 その独自性と時代性』(西田良子著、 翰林書房、平成7年)152p>
㉑ 昭和二年は、五月に旱魃や低温が続き、六月は日照不足や大雨に祟られ未曾有の大凶作となった。この悲惨を目の当たりにした賢治は、草花のことなど忘れたかのように水田の肥料設計を指導するために農村巡りを始める。この肥料設計こそ無料奉仕で行われたものである。<『イーハトーヴの植物学』(伊藤光弥著、洋々社、平成13年)79p>
㉒ (昭和2年)田植えの頃から、天候不順の夏にかけて、稲作指導や肥料設計は多忙をきわめた。<『新潮日本文学アルバム 宮沢賢治』(新潮社、昭和59年)77p>
(以上)
 そこでこのリストを眺めていると、昭和52年以降になると赤文字やピンク色文字が多いことに気付く。つまり、昭和52年の『校本宮澤賢治全集第十四巻』出版以降になると、事実誤認やあくまでも単なる推定、あるいは「羅須地人協会時代」としては当て嵌まらないものが目立つようになっている。
 そしてその原因を落ち着いて探してみれば、まずは福井の「昭和二年はまた非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」という「事実誤認」であり、そしてその影響力の計り知れなさに鑑みれば、それを検証もせず裏付けも取らずに載せた「旧校本年譜」であろうことが常識的には言えるだろう。なぜならば、「旧校本年譜」出版以降で「問題となる記述内容(つまり赤文字やピンク色文字部分)」は皆、この福井の「事実誤認」と符合するものばかりだからである。しかも、それ以前にはこの「事実誤認」は他の論考等で引用されていないからである。

 ということは次のような現象がそこに起こっていたと言えそうだ。この「事実誤認」の初出は『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店版、昭和14年、317p)だから、誰一人として昭和52年まではこの「事実誤認」を自分の論考に引用した人はないということであり、そのような人達はおそらくこれは「事実誤認」であるということを知っていたか、あるいは裏付けをとろうとしたところ、昭和2年は冷夏でもなければ、ひどい凶作でもなかったことに気付いていたのであろう。ところが、「旧校本年譜」にこの「事実誤認」が載ってしまった途端に、少なからぬ賢治研究家がこの事実誤認である「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」を検証せず裏付けも取らずに、筑摩書房の発行したものだからとその中身を端から真に受け、これは事実だと安易に思い込んでしまったという現象がである。
 まさにこの現象は、
 あやふやな情報がいったん真実の衣を着せられて世間に流布してしまうと、もはや誰も直接資料にあたって真偽のほどを確かめようとはしなくなります。
石井洋二郎氏が危惧していたことが起こった一つの具体的な事例だと言えそうだし、残念なことだがどうやら、
 〝あやふやな情報がいったん真実の衣を着せられて世間に流布してしまう
           =〝「昭和二年はまた非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」という「事実誤認」が「旧校本年譜」に載ってしまった〟
という等式が成り立っていたということのようだ。
 言い換えれば、「羅須地人協会時代」の賢治の稲作指導の裏付けとして使える資料は、赤文字部分やピンク色文字部分があるものは資料としての信頼度が低いのでそれらを除いたものとならざるを得ないだろう。

<*1:投稿者註> 福井の「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」は彼の全くの事実誤認であることは、以前〝「非常な寒い気候で、ひどい凶作」という誤認〟において既に実証したところであり、それどころか逆に、稗貫郡の昭和2年の水稲は天候にも恵まれ、周りの郡とは違っては稲熱病による被害もそれほどではなく、昭和2年の米作は少なくとも平年作を上回っていたと判断できる
 また、昭和3年の夏に盛岡や花巻周辺で40日以上も日照りが続いたことはたしかに事実だったと言えるが、かといって、「気候不順による稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走した」ということもほぼ考えられないことも以前〝「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い〟において実証したところである。しかも、この年に稲熱病が発生したとしてもそれが稗貫郡で猖獗したということも、当時の新聞報道によればそのような事実はないし、稲熱病が猖獗するような気象条件等にもほぼなかったので、「一九二八年の夏、周囲の田に稲熱病が発生」ということもまずあり得ない。

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《鈴木 守著作案内》
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       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
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 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』        ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』      ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』

◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。


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