みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

澤里武治と高瀬露との偶然の一致

2016-10-27 08:30:00 | 賢治渉猟
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 この度、澤里武治のご子息裕氏から、武治自筆の〝(その一)「略歴」〟を見せたもらったのだが、その前半は
   一、大正一四年四月 岩手県立花巻農学校入学
で始まり、次のように続いている。
一、昭和三年四月 岩手縣師範学校本科第二部入学
            (註 縣立と呼称するは誤り)
一、昭和四年四月 岩手縣上閉伊郡上郷村(現遠野市)立上郷小学校本科訓導就任
一、昭和七年四月 岩手縣師範学校専科入学
             音楽専攻
一、昭和八年四月 岩手縣紫波郡志和村(現紫波町)立片寄小学校本科訓導
こうしてここまで書き並べてみると、やはり武治と高瀬露の二人のタイミングのよさ(偶然の一致)に改めて目が釘付けになる。

 それは、露が鍋倉村(花巻)の寶閑小学校から上郷村(遠野)に転勤した際の時期と赴任先は次のとおりだからである。
 昭和七年四月 岩手縣上閉伊郡上郷村立上郷尋常高等小学校本科正教員勤務
つまり、澤里武治が「風の又三郎」の主題歌?「どっどどどどうど」の作曲を賢治から依頼されたのだが、結局自身が納得しうるものができずに終わったので、賢治の意思に沿えなかったことを彼は悔やみ、音楽の勉強をやり直すために<『宮沢賢治と遠野』(遠野市立博物館)36pより>昭和7年4月に一旦休職して専攻科に進学したのと丁度入れ替わりにして、露が後釜の如くに同校へ着任しているからである。
 しかも、実は
 ・露の嫁ぎ先の小笠原牧夫の家は、武治が昭和5年に養子縁組した澤里家とは道路を挟んで筋向かいにあった。
さらには、
 ・武治のご子息裕氏によれば、小笠原露(高瀬露)は澤里家の屋敷内に別にあった家に一時期住んでいた。
ともいう。

 そこでこれらのことに鑑みれば、澤里武治は賢治の意を汲んで露のためになにくれと力を貸していたのではなかろうかという可能性が浮かび上がってくる。 
          
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◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。

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