《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
この度、澤里武治のご子息裕氏から、武治自筆の(その一)「略歴」
(その二)「恩師宮沢賢治との師弟関係について」
(その三)「附記」
を見せていただいたのだが、その中の〝(その二)「恩師宮沢賢治との師弟関係について」〟を見直していたならば、遅ればせながら気付いたことがある。その中に、賢治が遠野に武治を訪ねて来たことに関しての記述は、(その二)「恩師宮沢賢治との師弟関係について」
(その三)「附記」
一. 昭和六年五月養家にご来訪の砌り 遠野駅に出迎え車中にて『風の又三郎』「どつどどどどう」の作曲方を命ぜられる
のただ一項目しかないということにである。ついつい、賢治は武治の所へ何度か訪ねていたとばかり今までの私は思い込んでいたが、賢治が武治を訪ねて遠野に来たのはたった一回しかなかったということになりそうだ。そしておのずから、このことに関しては気になることが二つ生ずる。それは『新校本年譜』には昭和六年のこととして、
九月初め頃 上郷村の沢里武治を訪い、人造石の原料調査を行い、かつ「風の又三郎」の空気にふれる。このとき遠野まで迎えに出た沢里に「どっどどどどうど」の作曲を依頼したという。沢里家では一家をあげて歓待し、雨中を駅まで送った。
となっていたからであり、 ・賢治が遠野(上郷)を訪れた時期に関して約4ヶ月間のズレがある。
・武治は「どつどどどどう」と書いているが、『新校本年譜』は「どっどどどどうど」であり、「ど」が一字多い。<*1>
という二つがである。・武治は「どつどどどどう」と書いているが、『新校本年譜』は「どっどどどどうど」であり、「ど」が一字多い。<*1>
とりわけ、この上郷訪問は賢治の文語詩〔盆地に白く霧よどみ〕
盆地に白く霧よどみ、 めぐれる山のうら青を、
稲田の水は冽くして、 花はいまだにをさまらぬ。
窓五つなる学校に、 さびしく学童らをわがまてば、
藻を装へる馬ひきて、 ひとびと木炭を積み出づる。
<『校本宮澤賢治全集第五巻』(筑摩書房)16pより>
と関連しているからなおのこと、この訪問時期のズレは今後吟味せねばならないだろう。
さらには、「稲田の水は冽くして」と詠まれているからこれがそのまま還元できると仮にしたならば、少なくともこの稲田の状態は「九月初め頃」とは言えないだろう(その頃稲田に水はないはずだからである)し、同様にして、「稲田の…花はいまだにをさまらぬ。」からはこの稲田の様子は「五月」のものとも思えない。となれば、この〔盆地に白く霧よどみ〕を賢治が詠んだ年はやはり昭和6年でなかった可能性があるということを示唆してくれている。
言い換えれば、この文語詩に詠まれている景は露の次女が『(昭和7年に、)母のところに宮澤賢治が会いに来たということです』と語っている時のことを詠んだものであり、下書稿に登場してくる「なれ」とは武治のことではなくて露のことだったということも十分に考えられるのではなかろうかということである。
<*1:註> ちなみに、「風の又三郎」の出だしは、
どっどど どどうど どどうど どどう、
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかくゎりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
<『宮沢賢治全集 7』(ちくま文庫)299p~>青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかくゎりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
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《鈴木 守著作案内》
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◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。
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