須永博士美術館スタッフブログ

熊本県阿蘇郡小国町にある、須永博士美術館。スタッフ佐藤から様々な情報をお伝えします。

東京写真専門学校へ

2008年03月31日 | 須永博士の人生
セツ・モードセミナーで絵の勉強をした須永博士は、今度は、写真の専門学校へ行く決意をします。
高校卒業のときに3校も受験し、失敗したのにもう一度挑戦した訳は・・・。

【22】写真を学ぶ

「自分は詩人になる。」という夢を描き、その詩にイラストを加えたものを作品として完成させたい。それに、写真もきっと、必要になる。
心配かけ、苦労させた母の手伝いもしていきたい。
そうだ、まずは母が今、細々とやっている写真屋を、本気でやろう。
だけどやっぱり、基礎は学ばなければいけないんだ。

高校3年生のときは、ただ何となく勉強して、何となく受験して、うまくいかなかったけれど、今度は本気で受験しよう。

23歳のときです。本気で勉強しました。

そうして、合格しました。学費は、母が何とかしてくれました。
必死で働き、必死で払っていてくれていたのだと思います。

1年間、本気で、真剣に学びました。

【23】母と写真屋を営む

写真専門学校で、写真の基礎も学び、今まで迷惑かけっぱなしだった母に、少しでも楽をさせようと、写真屋を手伝い始めました。

母と子、写真屋で食べていかなければと、真剣に考えました。
絵の学校、写真の学校の費用を出してもらったし、身体の弱い母に、少しでも役に立つ息子になりたいと思いました。

まず、写真屋の看板を作りました。
カメラの絵を描き、「DPE」と、写真屋と分かるような看板を掲げました。
自分の撮影した写真や、絵を飾り、写真の現像をしたり、お客さんとの応対をしたり、自分なりに一生懸命やりました。

七五三の季節には、近くの神社で写真撮影をしたり、成人式、結婚式、お正月の記念写真などを撮影したり、また、町内旅行へカメラマンとして一緒に行った事もありました。
免許証の写真撮影も結構依頼があり、撮影から現像、その日のうちに渡す・・・。という仕事も多かったです。
やはり、写真の学校へ行ってよかったです。
学べるときに、学んでおくといつか役に立つことってあるなあと、今も思います。


・・・・
詩人になる夢は持ち続けながらも、今やるべき事・・写真屋を営むことに一生懸命だった須永博士です。
店内に自分の撮った写真や、絵を飾り、近所のおじさんに
「兄ちゃんがこれ描いたのか。これはいいぞ。がんばれよ。偉くなれよ。」
なんて言われたこともあったそうです。
明日は、今回のシリーズ(?)最終回です。
気付けば明日はもう、4月ですね。
新しい季節が始まるときに、須永博士から今を生きる人たちへのメッセージも書かれてありました。
どうぞ、お待ちください・・・。
コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

絵の基礎を学ぶ日々

2008年03月30日 | 須永博士の人生
22歳の春、絵の基礎を学ぶために「セツ・モードセミナー」へ通い始めた須永博士。そこで、大きな自信に繋がる出来事がありました・・・・。

【21】河原淳先生との出逢い

港区にあった(現在は新宿)セツ・モードセミナーに通う日々、週3日のカリキュラムでした。ドキドキしながら、教室に入り、いつも一番後ろの席に座り「この道しかない。」と心の中で言いながら、真剣に学びました。
 全国から服飾関係、デザイン関係を目指す人が集まっている場所でした。

「みんなかっこいいなあ。」

スタイルも良く、夢に向かっている人たちの中にいるだけでも、いい勉強になりました。良い刺激の中で、石膏のデザインや、モデルさんを見て描いたり、本格的な授業の日々、生まれて初めてと言えるほど、一生懸命でした。
ここで学んだ生徒さんが、先生になっていたりして、若い先生が教えてくれる中で、セミナーの設立者の「長沢節先生」も週に1度授業があり、もう1人イラストレーターの先生が、月に1度、教えてくれていました。

その先生が、「河原淳先生」です。

ある日の授業のテーマは、新聞広告に載せる為の絵でした。
「雨の日、傘を差した人」
というテーマです。

私が書いたのは、傘を差したかわいい子供達がいっぱい、空から降りてくるようなイラストです。
描き終え、周りを見ると、本格的な、かっこいいスタイル画でした。
「俺のこの絵じゃ、ダメだよな・・。」と思いながらも、思い切って提出しました。

先生に提出し、休憩時間に。
そして教室に戻り、河原先生の批評の時間です。

すると、突然、

「この絵を描いた、須永君、立ちなさい!!!」

と言われました。
一番後ろの席に座っていたので、立ち上がるとみんな振り返ります。

おそるおそる、立つと・・・

「この絵が今日の、1番です。
 みんな、同じような絵を描いてもいけません。
 この、須永君のように、人には描けないハッとするような絵を描きなさい。
 須永君、君の絵は必ず世の中に認められます。がんばりなさい。」

「え!!!、僕の絵が、1番!?」

びっくりしました。
約40人の教室のみんなもびっくりしていました。
そして、褒められたことで、とても自信がもてました。
今まで褒められたことなんてない人生でしたから。

河原先生は、それからも須永博士を応援してくださいました。

「自宅で、河原ゼミといって色々な画家を呼んで勉強会をしているので、君も来なさい。」と言ってくださり、等々力という場所の自宅に何度も尋ねていきました。
有名なプロの画家、現在も名のあるイラストレーターの人などが来ていて、本当に嬉しく、楽しかったです。

「みんなすごいなあ。
 世の中にはすごい人がたくさんいるんだ。」

毎日が輝き、希望に満ち、自分にも少しづつ、少しづつ自信が持ててきました。


・・・・
セツ・モードセミナーという学校は現在も、故・長沢節先生の遺志を引き継ぎ存在しています。
河原淳先生も、2006年に亡くなるまで、須永博士に手紙を下さったり、応援してくださっていたそうです。
私も、この記事を書くにあたって初めて調べてみました。
須永博士の話していた「スタイル画」は、現在の須永博士の絵とはまったく違うものですが、この時に学んだ基礎は、しっかりと胸の中にあります。
羅漢絵(須永博士が50歳から描き始めた五百羅漢の絵)を書くときのデッサンなどに役に立っているんですね。

2年間の絵の勉強を終え、次は写真の専門学校に通う決意をします。
その訳、それから・・・、明日へと続きます。
(今日の画像は、ひとりぼっちの愛の詩 3集より。)
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

にぎやかな美術館でした。

2008年03月29日 | 小国の風景・情報・つぶやき
小国はだいぶ暖かくなってきました。
春休みということもあり、多くのお客様がいらしてくださいました。

やっとパソコンの前に向かったのですが、須永博士人生編は、明日、続きを書きます。申し訳ございません。
コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大きな壁

2008年03月28日 | 須永博士の人生
さあ、いよいよ自分の人生を素晴らしいものにつくっていくぞ!
今までの弱い自分から、自分の手で、強い人間にしてみせる!!

と、心に誓い、新しい人生を歩き始めたところで

「大きな壁」

にぶつかりました。
それは

「母」

でした。

須永博士からのFAⅩを読み⑲のタイトルを決められずにいましたので、もう一度聞いてみました。そして送られてきたFAXに書いてあった文字、その言葉が須永博士と母の今までです。



⑲母との決戦

 「よし、学校で、絵の基礎を学ぶぞ。」
 胸の中は希望であふれていました。
 
 母に、
「絵の学校へ行って勉強したい。
 セツ・モードセミナーというところなんだ。」
 
 というと、返ってきたのは

 「会社もろくに勤められないお前が
  なんで絵で食べていける。
  お母さんは許さないよ。」

でした。
それまでの自分だったら、こう言われてすぐにあきらめていたでしょう。
でも、今までの自分とは違うんだ!

「よくも言ったな!
いつも俺が、これをしたい、あれをしたいと言うと、
 それはだめ。こうしなさい。と言ってきた。
 だから俺は世の中で通用しない人間になったんじゃないか。
 あれしろ、これしろは
 もう絶対に言うなよ!
失敗したっていい。
 自分のやりたいことをやる!!!!!!!!」

ここまで母にぶつかったのは、生まれて初めてのことでした。
母も驚いたと思います。
でもここでも返ってきた答えは、

「お前にできるはずが無い。」

でした。
その瞬間、自分の感情が表に出たのです。

母に身体でぶつかりました。
何をどういったのか覚えていないくらいです。
ここまでしなければ、母に自分の気持ちを伝えられなかった。
今思えば、かわいそうなことをした。
でも、こうするしかなかった。
絵の道で生きられなかったら、もう本当に人生は終わり。と思っていたから、
どうしても越えなければならないものだったのです。

⑳母の家出
母が家出をしました。

「ひろしがおかしくなった。
 ひろしが狂った。」

母は、母の田舎にいました。

自分がしようと、したいと思っていた家出を、先に母がしたのです。

(母がそこで何を想い、何を考えていたかは今は知ることはできません。
ただ、それまで反抗することの無かった息子が突然、こんなことを言い、
こんなことを始めようとし、そして母に反抗するなんて・・と、息が止まるほどビックリしただろうと思います。)

1週間ほど経ち、帰ってきたとき、母は何も話しませんでした。

これから、本当の
「子離れ、親離れ」
が始まりました。


・・・・・
「母との決戦」とタイトルをつけた須永博士です。
私自身の経験の中では「母との決戦」という言葉は考えつかないものでした。
でも、ここまで強い決心を持たなければ越えられなかった壁を「越える」までには行かなくても、一歩踏み出したことは、すごいことだったんだと思います。

母についてのFAXは、15枚にも渡っていました。
須永博士の詩集の中にも「母」に対しての詩がとてもたくさんあります。
母への想いは66歳になった今でも強いものがあります。
この言葉がFAXの最後に書かれてありました。

「お母さん ごめんね。
 ずいぶん苦労させたね。
 この世で一番心配してくれたのはお母さんです。
 お母さんが一番だよ。ありがとう。
 この今の幸せは全部、お母さんがつくってくれたんだよ。
 親不孝の息子でごめんなさい。」

そして・・・

「やっぱりお母さんが好きです。
一番 けんかをするのもお母さん。
一番 ほめてもらいたいのもお母さん。
一番大切なことを教えてくれたのもお母さんです。」

と書いてありました。

次回、母からの旅立ちを決め、セツ・モードセミナーでの勉強の日々が始まります・・・。

 
コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

行けるところまで・・・

2008年03月27日 | 須永博士の人生
「もう人生を終わりにしよう・・」

その絶望の時から、

「もう一度、生きよう
  強い人間になってみせる」

と決めた21歳。

知れば知るほど、なぜ、ここまでの絶望から立ち上がれたのか、切り替えられたのか、踏みとどまれたのか、ますます聞きたくなっている私です。
今までの詩集を読み直してみると、前書き、あとがきにこの時の事が何度も書いてあります。
この瞬間が、今でも須永博士の心には 
くっきりとそのときの光景が残っているように思います。
痛ましい事件が現在もたくさんあり、これを書いている私も、
「須永博士は、踏みとどまることができた一人」であり、だからこそ、ギリギリのところにいる人に、そっと手を差し伸べてあげたい。自分にできることは、してあげたい。と心の底から思っているんだと思えてきました。

いよいよ、「一度終わりかけた人生」から、
「強く生きていく人生」へ・・・です。

⑱自分の力で
 
 今までの自分
惰性で生き、やる前にあきらめ、すぐにくじける自分
 は、もう捨てよう。
 
 これからは、一歩一歩、自分という仲間と一緒に、自分をつくっていこう。
 やりたいことをやろう。
 好きなことをしよう。
 そうだ、やっぱり自分が好きな絵を描く仕事をしよう。
 苦しいとき、本を読むと元気が出たなあ。
 特に、詩を読むと、涙がこぼれてきた。
 こんな言葉が書けたらいいなあ。
 
 それまで落ち込むばかりだった自分が嘘のように、心の中は希望があふれてくるような気持ちがしていました。
 「いよいよ、自分への挑戦だ! 」
 「いよいよ、好きなことへの第一歩だ!」

 絵を描く仕事をしよう・・という「夢」ができたのです。
 今までの自分には何の基礎も無い。
 そうだ、それには絵を描く基礎を学ぼう!と、考えました。
 基礎の無い人生は、アマチュアで終わってしまう。
 俺はプロになる!
 それには、ちゃんと学校へいって、基礎を学ぼう!
 そう思い、絵を学べる学校を探していると
 「セツ・モードセミナー」を知りました。
 
 「ここで勉強しよう。」と決めました。

 行けるところまで ひとりでいってみよう
 やれるところまで ひとりでやってみよう

 
でももうひとつ、大きな壁がありました・・・・。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰も助けてくれない

2008年03月26日 | 須永博士の人生
⑰誰も助けてくれない
 部屋で1人で過ごす日々が1年半続きました。
   
 誰も自分の気持ちなんて分かってくれない。
 こんなに苦しいのに。
 こんなに涙がこぼれているのに。

 もう生きている意味なんて無い。

 毎日思いつめているうちに、
 
 「もう人生を終わりにしよう。
   誰も止めてなんてくれやしない。
  生きていてもいいことなんてひとつもない」

 雨が降る、鎌倉にいました。
 北鎌倉駅を降り、踏み切りの前に立ち、電車の音が聞こえてきて・・

 「もうすぐ電車が来る。
   このまま飛び込めば、楽になれる。
  もうおしまいだ・・・。」

 一歩、前に足を踏み出そうとしたそのとき!!!

「このまま、死んでいいのか」

  確かに聞こえました。
  一歩前に出るはずが、一歩うしろに下がっていました。

  電車は通り過ぎました。
 
 それからです。
 心の中から、こみ上げてくる言葉。
 心の声。

 「誰も助けてはくれないぞ。
  助けてくれる人がいるとすれば、

  自分自身  だ。
  自分がいるじゃないか!おれだ!
  
  今から、この弱い自分を、自分の力で強い人間にしてみせる。」

どこからか聞こえてきたようにも感じた心の声。
なぜだかみなぎってくる力。

さっきまでの弱い自分。惨めな自分。
でも今は違う。
絶対強くなってみせる!
絶対すごくなってみせる!

そう心が決まったのです。
コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

20歳の須永博士

2008年03月26日 | 須永博士の人生
今朝、須永博士からまたFAXが届いていました。
新刊の原稿を書く合間に、人生を振り返り走り書きしてあるFAXに書いてあったことは、

「家庭、学校でおとなしく、大声で笑ったことも無かったけれど、本当の自分は、明るかったのかもしれません。ただ、それを出すときが無かったのかもしれません。母とはいつもけんかをしていたけれど、1人でいるときは絵を描いたり本を読んでいたりすることが楽しかったし、歌を歌うことも踊ることも好きでした。
でも人前では自分の表現方法が分からなかったです。」
と書いてありました。

今日は、内面は、そんな一面もあったけれど、世の中で生きていく力はまだまだ無かった20歳の頃から、会社を辞めるまで・・・です。


⑬タイヤ販売会社での挫折
 新宿という町で、営業に出かける毎日。
 来る日も来る日も、うまくセールスできない。どこへ行っても断られる。
 「あ~、いやだなあ。」「辞めたいなあ・・。」
 そんな気持ちでいるから余計に売れるはずが無い。
 ある日、新入社員が入ってきた。有名大学を卒業し、英語も話せて、見るからに「頭がいい」人でした。しかも頭がいいだけでなく、人とのコミュニケーションも上手で、会社の壁に張ってあるグラフは彼のはぐんぐん伸び、自分のはちっとも伸びない。
 上司に呼ばれ、みんなの前で比べられる。また落ち込む・・。

 「あ~あ、もういやだなあ。」
  「みんな俺のことをバカにしている。笑っている。」
  「がんばったって売れやしない。」
こんなことを頭の中でぐるぐる考えていました。

 思い切って、母に「辞めたい」と相談してみたら・・・。

「あんな良い会社、なんで辞めたいなんていうの。」

と、やっぱりか・・・。という返事。

⑭突然の父の死
 突然でした。
 大酒のみの父は、50歳、脳出血で亡くなりました。
 泣きませんでした。
 「こんな簡単に、人は死ぬんだ。」
 というのがそのときの感想です。

⑮喪失感
 父の葬儀が終わり、その後すぐ、会社を辞めました。
 いやな上司もいるし、仕事もうまくいかないし、続けていても意味が無い。
 母は怒りました。
 でも、もういやでした。
 それから、家の中に閉じこもる生活が始まりました・・・・。

⑯1年半の空白
 父もいなくなり、母と2人っきりの生活が始まりました。
 家にいれば、母が食事を部屋まで持ってきてくれる。
 仕事もする気にもなれない。
 毎日ただ生きている。食べている。寝ている。それだけ。
 「あ~あ、生きていてもつまらないなあ。」
 「誰も自分の気持ちなんて分かってくれないなあ・・。」
 
 1人でいると、どんどん落ち込んでいくばかりでした。
 外に出て人に会うのが怖い。
 何をする気にもならない。

 でも、部屋で本を読むことと、絵を描くことだけは辞めませんでした。
コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高校卒業→就職へ

2008年03月25日 | 須永博士の人生
昨日まで、須永博士の小、中、高校生時代を振り返り、今までよりももう少し、須永博士の心の中を知れたような気が、私もしています。
人それぞれ、色々な思い出のある学生時代だと思いますが、須永博士にとっては、特に楽しい思い出もなく、「惰性で生きていた」時だったそうです。
そんな須永博士が社会に出て、これからの届いたFAXには、人生に絶望、無気力、意気消沈、そして絶体絶命!なんて書いてありました。
 なにがそこまで思いつめた原因だったのでしょうか・・・。

⑩就職活動
「高校を卒業したら、父の写真屋を継ぎなさい。そのために写真を学べる大学に入りなさい。」と、母に言われるがまま、写真の専門学校、そして大学を受験。
 でも、受験した3校すべて不合格。 
 理数系がまったく苦手だったので受かるはずもありません。
 仕方なく、新聞広告でみつけた写真屋さんに働きに行くことにしました・・・。

⑪社会人として・・・
 家業の写真屋は父と母がして、自分は錦糸町の写真屋さんへ。
 半年ぐらい働いただろうか・・・。
 ある日、知人の紹介で求人中のタイヤ販売の会社へ就職することに。
 「働いてみるか。」と、就職してみたものの、
 
 人とうまく話せない。 
 今まで大変なことはみんな母がしてくれていた。
 そんな自分が、タイヤを勧めても誰も買ってくれない。
 
 会社の上司からは、毎日のようにみんなの前で
 「お前はダメだなあ。」と言われる。
 
 でも、母は有名なタイヤメーカーへの就職を喜び、自分の苦しみ、悩みは理解してくれない。家に帰ったってつまらない。
 
⑫唯一の安らぎ
 そんな時いつも、会社の帰り道の銀座へ向かい夜のネオンや大きな鮮やかな看板を見て、それを絵に描いていました。
 「きれいだなあ。」
 「ずっと絵を描いていたいなあ。」

 やはり、絵を描いているときだけが自分の心が落ち着くのでした。
 家で母には悩みを打ち明けることも無く、いつも会話はほとんど無い生活でした。


・・・・・・
☆この、タイヤ販売会社では1年半ほど働いたそうです。
 須永博士のプロフィールには、ほとんどのものに、
 「勤め人生活2年」と書いてあります。
 私も今回初めて知りましたが、写真屋さんでの半年と、タイヤ販売の会社1年半を合わせた「2年」だったのですね。
 もうすぐ、須永博士がこの会社も辞める決断をするときです。
 どうしてたった1年半で辞めたのでしょうか・・・。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ちょっと休憩・・

2008年03月24日 | 小国の風景・情報・つぶやき

須永博士の子供のころってどんなだったろう・・・。
なんて思いつきで書き始めたものの、いろんな発見や、驚きがあり、須永博士からもFAXがたくさん届いて読んでいるうちに、つい連載のようになっています。
そうしているうちに、外はどんどん春になっています。
フキノトウも、すっかり開いてしまっていました。
(本当は、土から顔を出したところを撮りたかったのに。)

今年はフキノトウの天ぷらも作らなかったなあ。
まだ、このくらいだったら何とか食べられるぎりぎりのとこですかね。

今日は日田からのお客様と、山菜の天ぷら話で盛り上がってしまいました。「肉を食べるよりも、天ぷらのほうが好き。」と話していたご主人に、想像が膨らみ、これからは「ダラ(タラ)の芽」や、「ウド」「筍」などなど山の幸のご馳走が楽しめる季節です。
田んぼの脇に生える「セリ」のおひたしも、小国に来て初めて食べたときの感動を忘れられません。

最近は山へ採りに行けないので、北里の道の駅「キオスク」や、JA阿蘇小国郷の野菜直売所でも、新鮮な野菜や、山菜が手に入ります。
私もここをよく利用しています。
ぜひ、小国にお立ち寄りの際は覗いてみると旬な野菜や山菜に出逢えますので、おすすめです!


 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高校生の須永博士

2008年03月24日 | 須永博士の人生
中学時代は陸上に打ち込めた須永博士ですが、高校を選び、受験、そして入学・・・。どんな高校生活だったのでしょうか・・・。
昨日からの続きです。

⑦高校を選んだ理由
特に行きたい高校も無く、担任の先生に勧められた高校を受験することに。
「君の成績ならこの学校が良いでしょう・・・。」といわれるままに。
1校落ち、合格したもう1校へ「まあ、いいか。」ぐらいの気持ちで3年間通いました。

⑧高校生になり・・・
「どうせ自分はこの程度の人間だ。
 だからそれ以上やると疲れるし、努力してもみんな以上になれるわけが無い。
 だから自分から がんばる 挑戦する
 なんてことは できない。やらない。」

ず~~~~~っと、そんな考えで生きていました。
何の思い出も無い、だらしない、やる気のない高校生活でした。
 絵を描くことだけは相変わらず好きだったので、美術部に入部。
 毎日、楽しいことも無い、遅刻、欠席の繰り返しで、よく卒業できたと思います。

⑨友達
 今振り返り、2人の友との出逢いが心の中に大きくあります。
 いつも成績のビリ争いをしていた友人。
 彼とは気が合い、話も合い、家が学校からの方向が同じで近かったこともあり、
 よく一緒にいました。

 それともう1人、今の須永博士があるのも彼との出逢いがあったからと、
 はっきり言えます。
 工藤勝嗣君、頭も良く優しい同級生でした。
 美術部で描いた自分の絵を、興味を持ってくれ、自宅に持ち帰ったりしていまし た。彼に見てもらうことも、何となく嬉しいことでした。
 (工藤君との出逢い、それからについては、また詳しく取材をしたいと思います。 しょうこ)


ここまで、小、中、高校時代の須永博士を書かせてもらいました。
「風に吹かれて」という詩集には、須永博士の生い立ち、父、母との関係などが少し書かれていたり、また、須永博士から今まで聞いた話しもありましたがここまで詳しく皆さんにお話ししたことはあまり無いと思います。
高校時代までの須永博士をこうして振り返ってみると、現在の須永博士とは正反対の人物ですね・・。
何でもマイナス思考。やる気が無い。特に夢も無い。家庭には笑顔が無い。

人生の転機はまだまだ先になりますが、この頃の須永博士を打ち消していく努力、過程がどんなものだったのか・・・。
まだ私も知らない部分が多いので、書きながら疑問に思ったことは本人に確認しながら、また書いていこうと思います。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中学生の須永博士

2008年03月23日 | 須永博士の人生
昨日の続きです。
昨日は、小学校に通う頃の須永博士でした。
今日は、中学生の頃の須永博士です・・・。

⑤好きだったこと・嫌いだったこと
やはり、嫌いだったのは「勉強」。
また、退屈な学校生活が始まる・・と思っていたときに全校マラソン大会があり、
思いがけず[学年2位!]に。
「お、やればできるじゃん。」
と、自分でもおどろき、その勢いで陸上部に入部。
(野球も好きだったけど、グラウンドの無い学校(1周70Mの校庭だけ)で、野球部も無かったので陸上部にしたという理由もあったそうです。)

唯一3年間続けられた陸上部で、800M,1500Mの選手になり、3年生の時には荒川区の中学連合体育大会で800M優勝!

自分の活躍を母も一番喜んでいました。
でも、期待が大きく膨らみすぎていました。

マラソンの大会があり、全校で6人選ばれる選手の選考に落ちたとき、学校に母親が文句を言いに行ったのです。
自分では、
「マラソンは自分に合わないな。800Mが走りやすい。」
と思ったいたので、選考に落ちたことも納得していたのですが、母は期待しすぎていたのです。
そんな事件もありましたが、3年間、陸上を続けたことは自分の自信にも繋がりました。

⑥その頃の性格・ともだち
小学校の頃につづき、性格は「おとなしい」まま。
ともだちも「なんとなく」。
走ることと、絵を描くことは一生懸命にできるけど、そのほかのことは本当に、
「ただ、何となく・・・・。」でした。
目立たない、特徴の無い子供だったと、自分では思います。



私も初めて聞く話がありました。
マラソンの選手に選ばれなかった時・・・
自分だったらと置き換えて考えたりしました。

もし落ちて、納得できたなら、きっとまだ努力が足りなかったと自分が一番分かっていたからかな・・・。

悔しい気持ちがこみ上げてきたら、この悔しさがきっと次の挑戦への力に繋がるはず・・。

第三者からみたら、それが特に母親だったら、
「この子はこんなにがんばったのに、何で選ばないの!! 」
なんて怒ることもあるでしょうね。。

だけど他の人もみんな、がんばっているんですよね。
つい、自分の子を愛し、応援したいがために、周りがみえなくなってしまうときもあるけれど、子供のがんばりを見守り、褒めてあげること、間違っていたら修正してあげること。
自分でも頭で分かっているつもりでも実際にできないことがたくさんあります。
須永博士のこの出来事を初めて知り、また今日も「そんなことがあったんだ・・・。」「自分の子育てにも役立ててきたいな。」なんて思ったのでした。

今日は雨です。
熊本市内では桜が開花したとのニュースが入りましたね。
小国の桜の蕾もだんだんとふくらんできています。
いよいよ春休みにも入り、学生さんのグループも多くなったきました。
卒業旅行の方もいるようです。
4月からは別々の道を歩いていく友達と、黒川温泉に・・・なんて、想像しただけで楽しい想い出ができそうですね
コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小学生の須永博士

2008年03月22日 | 須永博士の人生
昨日、須永博士の学生時代って、どんな子だったんだろなと思い、質問のFAXを流しました。
答えが返ってきましたので、書いていこうと思います。

今日は、小学生の頃の須永博士です。

①生い立ち・・・
ご存知のように、須永博士には

 きょうだい 

は、いません。

「ひとりっこ」

です。

1人息子ですから、お母さんは大切に、大切に育ててきました。
お父さんは大酒のみで、いつも酔っ払っていた記憶があります。
お母さんは、ひろしが生き甲斐でした。
笑顔のない家の中で、母に守られるように毎日を過ごし、今はっきり言えるのは
「母の過保護」でした。

いつもそばにいて、
「これをしなさい」
「この子と遊びなさい」
「これはダメ」
と、ピッタリくっついていました。

②小学校での思い出・・
小学校では、勉強がきらい。
根本的に
「なんで勉強しなければいけないのか」
が分からず、難しいことや意味の分からないことを覚えなければいけないのか、
そう思って、まったくしませんでした。

遊びはべーゴマや、どんちっぱ、くぎさし
(そのまま書きましたが、私にはどんな遊びか想像できません。)
それと、やっぱりいろいろな絵を真似して書いて、マンガを描くのが好きでした。
(身体はあまり強くなく、性格もおとなしかったそう・・。)

③ともだち・・
ともだちは、いたけれど
「なんとなく」
いっしょにいて
「なんとなく」
遊ぶ、そんな小学校生活でした。

④小学校の時の自分を思い、今、思うこと
勉強する意味を、教えてもらっていなかった。
いまでも、
「なんで算数や理科など頭に残っていないようなことを勉強するのか」
がはっきりと答えられません。
 その意味を教えてほしかった。

世の中で生きるために必要なことを教えて欲しい。
心の勉強、ともだちを大切にすること、家族を思いやる心、家の手伝いをすること・・。
自分ができなかったたくさんの心の勉強を、今生きている子供達に、お父さんお母さんや家族、そして学校の先生方にして欲しいです。


ここまでが、返答がきました小学生の須永博士を紹介しました。
今、小学校に私の息子が通っています。学校から届くお便りには、「勇気を出して・・」や、「気付く心を持とう」や、「正しいことを判断できる心を育てよう」「思いやりを持とう」など、心を育てていこうという言葉が多く見られます。
今、先生方が子供に教えなければいけないことも山ほどある中で、もちろん学力や体力を身につけることは基本ですが本当に大切なものは何なのかということも、しっかりと考えてくださっているのだなと感じます。

須永博士が子供の頃を振り返り、分からなかったこと、教えてほしかったことを書いてくれたのを読み、私自身も子供と接するときに本当に大切なことを考えるきっかけにもなりました。

さて、つづきは、中学校の須永博士です。
お楽しみに・・・。
コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

梅の里

2008年03月22日 | 小国の風景・情報・つぶやき

http://www.hibikinosato.co.jp

この前の休館日に行ってきた、大分県大山町の
「ひびきの郷」の梅林です。

施設内にある温泉が大好きで、何度も行ったことがあります。
今の季節は梅が咲き誇り、とってもいい香りがしていました。

お手入れが行き届いた梅の花は、実を収穫しやすいようにきれいに背丈もそろえてあり、すごくきれいでした。
小国から車で30分、高速の日田インターから20分・・・くらいかな。
山の上にあり、眺めもいいですよ。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

月夜

2008年03月21日 | 小国の風景・情報・つぶやき
写真が上手く撮れなくて、残念なんですが、今日はすっっごく月が綺麗です!

先ほど、大分のミキさんからメールが来て、外に出てみました(^-^)

街灯が無いこのあたりは、夜は闇が当たり前なのに、月の明かりで道が見える!
すごい明るさです。
コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旅立ち

2008年03月21日 | 作品紹介
(たった一冊の詩集 67ページの詩です。)

私も、仲のいい友達とのお別れを思い出すと、今も懐かしさと、淋しさが込み上げてきます。
今思えば、長い人生の中での本当に短い、そしてとっても貴重な 
《時》 なんですよね・・。
今この瞬間も、同じように大切な一日なのは当然なんですけれど
友達や先生と、泣いたり笑ったり、悩んだりしながら過ごしていたあの時が、本当に懐かしい。(年ですね)

須永博士の学生時代はどうだったのでしょう・・・。
私が聞いたことあることは、高校のときは、勉強は苦手で、陸上に専念していたそうで、800mの選手でなかなか早かったそう・・・。
昔の写真で、友人とスキーに行った写真も見せてもらったことがあります。
21歳で対人恐怖症になり、次の人生が始まる前の青春時代の話です・・。

今日の卒業式から息子が帰ってきました。
昨年は、「泣いちゃった。」と帰ってきた息子に、

「どうだった?」
と聞いたら、あっさりした様子で

「うん、女子は泣いてたけど俺は泣かなかったよ。」

と、息子も昨年とはまた違い、「男の涙」は我慢したようです。

「先生は、感動しすぎたから今日の宿題は音読だけにしますだって!
だから、遊びに行ってきま~す!」
と、帰ってきて何分もしないうちに飛び出していってしまいました・・
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする