鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2014.4月取材旅行「鷺沼~荏田~下鶴間~さがみ野」 その9

2014-05-07 05:56:43 | Weblog
喜兵衛が挙げた3人の「人物」の一人、京都からやって来た「歌よみ」であるという「藤原道雄(権介)については今のところよくわからない。当麻山無量光寺の「陀阿」については、これは正しくは「他阿」であり、無量光寺第52代寺主の霊随(れいずい)上人(1765~1835)のこと。天保2年(1831年)当時、66歳。他阿霊随は、文化7年(1810年)、五柏園丈水(じょうすい)の三回忌に、追善句集である『遠ほととぎす』を刊行しているという。無量光寺には丈水の句碑があり、これは丈水と親交があった他阿霊随により建立されたものであるらしい。また境内にある芭蕉句碑も霊随が建立したものという。この霊随と親交のあった「五柏園丈水」とは、愛甲郡依知村猿ヶ島(さるがしま)の農民で、本名大塚六左衛門。俳人で、天明8年(1788年)には猿ヶ島に芭蕉の句碑を建立しています。荻野の「洞々」とは、「蟹殿洞々(かにどのとうとう)」のことで本名高橋伊兵衛(1766~1835)。厚木市上荻野(かみおぎの)にある「荻野神社」の境内には「あつぎの文化財獨案内板(ひとりあんないばん)」というのがあって、そこには「蟹殿洞々」として次のような説明が記されています。「洞々は上荻野東谷戸(ひがしやと)の高橋家に生まれ、本名高橋伊兵衛といい、江戸時代俳人として活躍しました。文化13年(1816)俳句集『的申集』を上梓し、天保6年(1836)7月15日、69歳で没しました。右の画像は天保8年(1837)7月、井上五川が描いたもので、賛は松石寺住職の国穏道寧によるものです。」 その肖像画は洞々の三回忌に描かれたものであるでしょう。境内には洞々の句碑も子孫により建てられています。碑面には「大空は 蓋(ふた)も實(み)もなし ほととぎす」という句が刻まれていました。句集『的申集(まともうししゅう)』は、全国行脚の記念として全国の有名な俳人の句を集めたものだとのこと。天保2年(1831年)当時、66歳。半原村の孫兵衛は、近くの上荻野村の洞々(高橋伊兵衛)や依知村猿ヶ島の丈水を知っていた可能性は十分にあると私は考えています。 . . . 本文を読む

2014.4月取材旅行「鷺沼~荏田~下鶴間~さがみ野」 その8

2014-05-05 06:10:10 | Weblog
荏田宿(下宿)の旅籠「升屋」の主人喜兵衛に、崋山は、「このあたりで名の知れた風流人としては、たとえばどういう人がいるか」と聞いています。すると喜兵衛は、「歯牙にかゝるものなし」と答えます。「歯牙にかゝるような風流人は、この近辺にはいません」とは、喜兵衛自身の言葉をおそらくそのまま崋山が日記に記したものであり、喜兵衛はよほどの自信家であったと思われる。そして喜兵衛は、やや離れた街道筋の三人のすぐれた風流人を挙げました。一人は愛甲郡飯山村に滞在しているという藤原道雄(権介)。京都からやって来た歌詠みで、教えを乞う者も多いと聞いている、と喜兵衛は言う。一人は高座郡当麻村にある時宗のお寺、当麻山無量光寺の寺主の陀阿(正しくは「他阿」)で俳諧を好み名声がある。あと一人は愛甲郡上荻野村というところに住む洞々という俳句の師匠。この三人だけだ、と喜兵衛は崋山に語ったのでしょう。「洞々」については、頭注に「高橋伊兵衛(1767~1835)。句集『的申集』がある」とあります。上荻野村は、厚木町から半原村へと向かう道筋にある村。半原村からは歩いて2時間ほどの距離。半原村に住む鍛冶屋兼猟師の孫兵衛も俳句を嗜み、「秋の蝶 入日をあとに 後の月」「秋の暮 色もかはらぬ 辻地蔵」の2句を崋山は日記に記録していますが、孫兵衛はこの上荻野村の俳句の師匠高橋伊兵衛(洞々)を知っていたかも知れない。 . . . 本文を読む

2014.4月取材旅行「鷺沼~荏田~下鶴間~さがみ野」 その7

2014-05-04 05:07:12 | Weblog
荏田宿の旅籠「升屋」の主人喜兵衛から聞いた「観音講」というものについて、崋山はどのように記しているだろうか。「馬の売販をなす」とあるから、馬の販売すなわち「馬市」が行われるものであったということになる。その「馬市」が開かれた場所は、「観音の像を中に置(おい)てすれバ、この名あるなるべし。多くは馬頭観音なりとぞ」とあるから、多くは馬頭観音のある広場か辻あたりで行われたものであったようです。近辺はもちろんのこと、遠い国からも、可能なだけの馬を牽き連れてきて、売買をするのです。自分が所有している馬に飽いてしまったり、または飼いにくい悪い馬などは、よい馬のようにしつらえて、お互いにそれぞれの馬をよく見極めて買うわけですが、初心者はだまされて痛い目に遭ったりしても、またいい馬が欲しくなって懲りずに馬市にやってきて売買をするのだという。以上が崋山が記している内容のすべてですが、もちろんこれは升屋喜兵衛から聞いたこと。喜兵衛はどこの「観音講」のことについて語ったのだろうか。『渡辺崋山集 第1巻』の「観音講」の頭注には「荏田村観音堂の馬市」とありますが、「荏田村観音堂」の本尊は平安時代末期作の「千手観音立像」(一木造)であり、「馬頭観音」ではありません。荏田村では、「馬頭観音」ではないけれども「千手観音」のある観音堂で「馬市」が開かれたのだろうか。それとも喜兵衛は、近くの大山街道沿いで行われている「観音講」(馬市)のことを崋山に語ったのだろうか。かつて馬は、農耕用として、また物資運搬用として、多くの農家において飼われており、屋敷の中や外に馬小屋があって家族同様に大事に扱われていました。幹線道路である大山街道には多種多様の物資を運ぶ馬の往来が多数あったはずであり、馬頭観音も街道筋に多数建立されていました。近隣の農民たちが馬を牽き連れて集まって馬の売買をする「馬市」は、大山街道筋においても各地にあったものと思われる。崋山は、その「馬市」を「観音講」と称している、と喜兵衛の話をもとに記しているのですが、そのような馬市が行われる「観音講」というものを私は初めて知りました。江戸時代の農村部における馬の売買の実態を、もっと詳しく知りたくなりました。 . . . 本文を読む

2014.4月取材旅行「鷺沼~荏田~下鶴間~さがみ野」 その6

2014-05-02 06:01:31 | Weblog
『緑区史 通史編』には、矢倉沢往還(大山街道)は「生活物資の輸送路」であり、駿河のお茶やわさび、伊豆のしいたけ、小田原の干物(ひもの)、丹沢の動物の肉、秦野のたばこ、相模川の鮎、相模野のねずみ大根、多摩の禅寺丸柿などが運ばれた、とありました。つまり「江戸地廻り経済圏」である多摩・相模・伊豆・駿河地方を貫通し、つないでいく主要道路であったということです。それらの産物は巨大消費地である江戸へと運ばれていったわけですが、一方、江戸の産物も街道によって地方へと運ばれました。運ばれたのはもちろん産物ばかりではありません。道は、人や物とともに文化が伝播していく道でもあったからです。太白堂六世江口孤月が大山街道沿いに3700人もの門弟を擁し、「桃家」(太白堂初代が天野桃隣であったことによる)と称して一大勢力を保持したとの『緑区史 通史編』の記述は、そのことの一端を物語っています。崋山と高木梧庵の二人は、『游相日記』の旅に出立した9月20日(陰暦)、青山に居住していた「太白堂主人長谷川氏」すなわち太白堂六世江口孤月の家に立ち寄り、一緒に近くの居酒屋に入って酒食をともにしています。崋山は39歳。孤月は44歳。崋山は文政年間に太白堂五世加藤来石の肖像画を描いているから、太白堂とは五世からの付き合いがあったことになる。六世江口孤月はこの五世加藤来石の門人で、太白堂系俳句の黄金時代を確立したという。その太白堂の俳句機関紙であった『桃家春帖』(とうけしゅんちょう)に崋山は二十代半ば頃よりずっと挿絵を描き続けており、孤月との付き合いは相当に深いものがあったと考えられます。大山街道沿いの青山に居住していた孤月のもとには、大山街道沿いに住む門弟たちが頻繁に出入りし、また孤月自身も大山街道沿いの門弟たちに呼ばれ、俳句を指南することがしばしばであったものと思われます。つまり太白堂江口孤月は、大山街道沿いの「俳諧を好める人」たちを知悉していたのです。荏田宿なら誰それ、長津田宿なら誰それ、厚木宿なら誰それ、というふうに。孤月は居酒屋で酒食をともにしながら、諳(そら)んじるように、相州へと旅立つ崋山に門弟たちの名を教えたことでしょう。崋山は親しい友人であり師匠でもあるその孤月から、それらの主な門弟宛ての紹介状をもらい、それを懐(ふところ)に入れて青山の大山街道沿いの居酒屋を、梧庵とともに出立したのです。 . . . 本文を読む

2014.4月取材旅行「鷺沼~荏田~下鶴間~さがみ野」 その5

2014-05-01 05:51:51 | Weblog
『新編武蔵風土記稿』によると、化政期(1804~1830)における荏田宿の戸数は162軒。そのうち往還左右にある戸数が24軒でした。「往還」とは言うまでもなく矢倉沢往還(大山街道)のことであり、下宿・中宿・上宿の3つに分かれていたということは、下宿においては往還左右8軒前後ほどであったと考えられます。江戸から来た場合、早渕川を渡って川岸に沿って道を進み、右手に高さ20mほどにそびえる「一里榎」の大樹を見、左手に庚申塔を見たところで右折すると、そこからが荏田宿でした。ほぼ真っ直ぐに宿場を進み、上宿のはずれで左折すると、かつて荏田城があった丘陵の裾あたりが小黒谷というところでした。上宿のはずれで右折すると、そこには釈迦如来立像を本尊とする釈迦堂がありました。『都筑文化 4』の「荏田宿」(横溝潔)によると、荏田村の高札場は、荏田宿の上宿の石川の分岐点にあったという。かつて荏田城があった丘陵の裾を通って厚木方面へと左折する地点にあったのでしょう。かつての荏田宿の面影は、明治27年(1894年)7月の大火や国道246の拡張工事で家並みが大きく分断されたことによって、ほとんど失われてしまいました。荏田宿は、早渕川に赤田川と布川が合流するところにできた低地にあり、周囲を水田に囲まれた中にありました。水田の広がる中に、ほぼまっすぐな往還(大山街道)にそって両側に24軒ほどの家並みが続く宿場であったのです。現在「秋葉山 常夜燈」があるところは緑区荏田町309で、かつてここは中宿でした。崋山が泊まった旅籠は「升屋」でしたが、これは下宿にありました。面白いのは中宿の秋葉山常夜燈は文久元年(1861年)の八月に「宿中」の者により寄付されたものですが、その常夜燈には「世話人」として「徳江喜兵ヱ」という文字が刻まれているということ。「升屋喜兵衛」は先代徳江理兵衛から受継いだ旅籠升屋を営んでいた、と『緑区史通史編』にありましたが、であるならば、「徳江喜兵衛」という名前であったものと思われる。崋山が「升屋」に泊まったのは天保2年(1831年)のことであり、秋葉山常夜燈が寄付された時からは30年も前のことであるから、常夜燈に「世話人」として刻まれている「徳江喜兵ヱ」は、崋山をもてなした喜兵衛の子ども、あるいは孫あたりではなかったかと推察できるのです。当時、「宿中」の有力者であったのでしょう。 . . . 本文を読む