鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2014.4月取材旅行「鷺沼~荏田~下鶴間~さがみ野」 その7

2014-05-04 05:07:12 | Weblog
荏田宿の旅籠「升屋」の主人喜兵衛から聞いた「観音講」というものについて、崋山はどのように記しているだろうか。「馬の売販をなす」とあるから、馬の販売すなわち「馬市」が行われるものであったということになる。その「馬市」が開かれた場所は、「観音の像を中に置(おい)てすれバ、この名あるなるべし。多くは馬頭観音なりとぞ」とあるから、多くは馬頭観音のある広場か辻あたりで行われたものであったようです。近辺はもちろんのこと、遠い国からも、可能なだけの馬を牽き連れてきて、売買をするのです。自分が所有している馬に飽いてしまったり、または飼いにくい悪い馬などは、よい馬のようにしつらえて、お互いにそれぞれの馬をよく見極めて買うわけですが、初心者はだまされて痛い目に遭ったりしても、またいい馬が欲しくなって懲りずに馬市にやってきて売買をするのだという。以上が崋山が記している内容のすべてですが、もちろんこれは升屋喜兵衛から聞いたこと。喜兵衛はどこの「観音講」のことについて語ったのだろうか。『渡辺崋山集 第1巻』の「観音講」の頭注には「荏田村観音堂の馬市」とありますが、「荏田村観音堂」の本尊は平安時代末期作の「千手観音立像」(一木造)であり、「馬頭観音」ではありません。荏田村では、「馬頭観音」ではないけれども「千手観音」のある観音堂で「馬市」が開かれたのだろうか。それとも喜兵衛は、近くの大山街道沿いで行われている「観音講」(馬市)のことを崋山に語ったのだろうか。かつて馬は、農耕用として、また物資運搬用として、多くの農家において飼われており、屋敷の中や外に馬小屋があって家族同様に大事に扱われていました。幹線道路である大山街道には多種多様の物資を運ぶ馬の往来が多数あったはずであり、馬頭観音も街道筋に多数建立されていました。近隣の農民たちが馬を牽き連れて集まって馬の売買をする「馬市」は、大山街道筋においても各地にあったものと思われる。崋山は、その「馬市」を「観音講」と称している、と喜兵衛の話をもとに記しているのですが、そのような馬市が行われる「観音講」というものを私は初めて知りました。江戸時代の農村部における馬の売買の実態を、もっと詳しく知りたくなりました。 . . . 本文を読む