鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

広重の甲府滞在 その最終回

2017-12-08 08:12:56 | Weblog

 『並崎の木枯』には、次のような記述もあり、注目されます。

 「頭取ヶ間敷(がましき)者ハ…姿形ハ恐敷候得共、道々昼夜の別(わか)ちなく酒食致候故、何(いず)れも皆大酔ニ而(て)前後左右も不相知(あいしれず)、家々ニ入候而酔潰(よいつぶ)れ臥転居候(ふしころびおりそうろう)…乱妨人の内八九分通りハ、草履(ぞうり)・もゝ引(ももひき)・藁図(草鞋〔わらじ〕)ニ而皆常体の支度也。」

 頭取となって集団を率いている者たちは姿形は恐ろしいが、途中で昼夜の別なく酒や食事を提供されているものだから、皆酔っぱらって商家に入って酔いつぶれたりそのまま寝転んでしまっているような有様であるが、一揆勢の八、九割は草履・股引や草鞋(わらじ)履きの普通の百姓の姿をしていたというのです。

 頭に鉢巻をしたり、腰に派手な色の縮緬やビロードを掛けたり、手に刀や槍を持ったりしている者は頭取たちであって、大方の一揆勢は普通の百姓の姿をしていたことがわかります。

 派手ななりをした「頭取」のような者たちはどれぐらいいたのだろうか。

 『並崎の木枯』では「凡(およそ)百人計と申ハ、昼夜ともに寝入もせず相働(あいはたらき)、其上大酔ニ而前後無差別の者共なれば…」とあり、100人前後の「頭取」たちがそれぞれの一揆集団のリーダー的役割をしていたことがわかります。

 この頭取たちは甲府城下に乱入した時に、出迎えた町役人に対して「然るべきところ」に案内するように命じていたことは前に触れましたが、実は『大月市史 通史編』によれば、甲府勤番士とも接触しています。

 甲府勤番支配の与力大竹伝蔵と小泉市左衛門およびそのほかの勤番士たちが、甲府城の北側の城屋町に出張し、ここで一揆衆の頭取の代表たちと接触。

 そこで両者間の交渉が行われたというのです。

 勤番士側が「お前たちの願いの筋は承知したので(勤番支配に)届け出る。また米については京一枡を銭百文で売らせるようにするから、すぐに城下を引き取るように」と言うと、頭取の代表は次のように答えたという。

 「そのように配慮されるなら、このような事態になる以前に御救いがあって然るべきであった。このような事態になってしまっては、もはや一揆勢による打ちこわしを止めることなど到底出来うることではない。」

 「何を今さら」というのが、頭取の代表たちの思いであったでしょう。

 一揆が起きる以前に、役人たちが何らかの有効な手立て(お救い)をしていたならば、こんなことは起きなかったということであり、「天保の大飢饉」において有効な対策を講ずることが出来なかった役人たち(甲府勤番士や代官たち)に対する痛烈な批判がここには込められています。

 『甲陽乱妨記』には次のような記述があります。

 「村々の人足大勢竹鎗を以て固メたれ共、皆散乱して乱妨の中へまじり込、町々をこわしける故大勢と相成ける」

 乱入して来た一揆勢に立ち向かうために竹槍を持って警固していた村々の人足たちも、一揆勢が乱入してくるとその中に打ち混じって商家を打ちこわしたことによって、一揆勢はいよいよ膨れ上がっていったというのです。

 城下周辺の村々の者たちの中にも一揆勢に合流する者がおり、さらに城下の貧窮民も一揆勢に加わったらしい。

 上一条町の茂兵衛、魚町の太蔵、相生町の善吉、新紺屋町の利兵衛、城屋町の市蔵、田町の松五郎、下連雀町の小三郎、誓願寺前の佐助などが処罰者の中に登場しています。

 甲府城下における大飢饉の影響はすでに天保4年以来深刻化しており、特に貧困層の生活状態は厳しく、一揆勢の城下乱入とともにその中に加わっていた者たちもかなり存在したであろうことが推測されます。

 それらの中で目立った存在が、上一条町の茂兵衛以下の連中であったのです。

 彼らは城下の表通りに商店を構える大商人ではもちろんなく、裏通りに小さな店を開いていたり店借(たながり)をしたりしている小商人であり、また日雇いや奉公などで日々の生活を送っている中下層の人々であったでしょう。

 天保騒動の記録者たちは、百姓を扇動して「乱妨」を働いた者たちを「悪党」と認識しました。

 彼らは若者たちを中心としており、派手ななり(異形)をして、刀や槍などの武器を手にしていました。

 彼らは役人たちを恐れず、何らかの具体的な要求を掲げることもせず、米の買い占めを行ったりして貧窮民を苦しめた商家を打ちこわすことを専らとしました。

 郡内一揆勢を率いた下和田村の武七や犬目宿の兵助などとは異質の頭取たちが、郡内一揆勢が国中(くになか=甲府盆地)に入り込むと次々と登場してきて、それまでの伝統的な「百姓一揆の作法」は、これら「悪党」の登場により崩壊することになりました。

 武七や兵助にとっては想定外の事態に遭遇することになったわけですが、それは、国中の村々や甲府城下においても天保の大飢饉の影響がかなり深刻化しており、貧窮民の不満や反発や絶望が鬱積されていたことを示していると言えるでしょう。

 『並崎の木枯』が、「無宿・悪党・乞食・・博奕打迄入交(いりまじり)」と記しているように、百姓の「常体の支度」(草鞋・股引)以外の人々が一揆勢には相当数加わっており、それらの者たちを含んだそれぞれの一揆集団のリーダーを「悪党」と記録者たちは呼んでいます。

 この「悪党」が率いる多数の一揆勢との遭遇は、甲府城下の町方の者たちにとっては相当に衝撃的であったと推測されます。

 なぜならそれまでの「百姓一揆の作法」は崩れてしまっており、「無法」的で、しかも視覚的にも派手な男たち(若者)が集団の前面に躍り出て来たからです。

 広重を江戸から招いた甲府城下緑町一丁目の商人たち11人も、これらの「無法」で「異形」の「悪党」に率いられた一揆勢を目撃した人々であったでしょう。

 

 終わり

 

〇参考文献

・『山梨県史 資料編13 近世6上』(山梨県)

・『大月市史 通史編』(大月市)

・『民衆運動史1 近世から近代へ 一揆と周縁』保坂智編(青木書店)所収「若者・悪党という実践者─十九世紀百姓一揆の変質」(須田努)



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