鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

広重の甲府滞在 その17

2017-12-07 07:29:45 | Weblog

 甲府城下に乱入して来た一揆勢の様子はどのようなものであったでしょうか。

 『並崎の木枯』にはその一揆勢の風体が克明に描かれています。

 「徒党共の有様は天鵞絨(ビロード)や晒切ニ而(て)鉢巻し、緋縮緬(ひちりめん)、白縮緬を腰に掛、或ハ綿の切、毛氈(もうせん)其外、赤白の切々ニ而頭を包ミ、矢張目立候色物ニ而是ヲ巻付…」

 ビロードや晒(さらし)のきれで鉢巻をし、緋色の縮緬や白色の縮緬を腰に巻き、あるいは白木綿のきれや毛氈(もうせん)のきれなど赤や白のきれで頭を包んだり、やはり目立つ色物のきれを頭に巻き付けていたというのです。

 もちろん一揆勢のみんながこのような風体をしていたのではなく、一揆勢の集団を率いていた男たちがこのような目立つ格好をしていたのでしょう。

 ビロードや縮緬、あるいは毛氈などは高価な織物であったから、彼らがもともと所持していたものではなく、打ちこわした富豪の居宅や土蔵、質蔵などから取り出して頭や腰に巻き付けたものであると思われます。

 色物のきれを頭や顔、腰などに巻き付けたりして目立つ格好をしていたことがわかります。

 「亦ハ両肌を脱(ぬぎ)、竹槍・木刀・六尺棒・刀・脇差・抜身ニ而携ヘ、或ハ鎗刀の抜身両手に持、力身立たる有様ニ而中々以難取付(とりつきがたく)…」

 あるいは上半身裸になって、竹槍・木刀・六尺棒・刀・脇差・抜身を持ち、あるいは槍や刀の抜身を両手に持って、力をみなぎらせた様子であるから、なかなか立ち向かえるような相手ではなかったというのです。

 刀、脇差、槍などは、やはり彼らがもともと所持していたものではなく、打ちこわした富豪の居宅や土蔵などから持ち出してきたものであると考えられます。

 派手な色物を身に付けているばかりでなく、刀や脇差、槍、六尺棒、木刀なども持っており、一般庶民が立ち向かうことができるような相手ではなかったのです。

 「先ニ進ミ候男衆申候ハ、其方共ハ如何成者(いかなるもの)と問候間、皆役人と答候所、可然所江(しかるべきところへ)案内可致旨…」

 「先ニ進ミ候男衆」とは、一揆勢の集団を率いるリーダーたちであったでしょう。

 「おまえたちはどういう連中か」と聞いてきたので、対応した者たちは「皆、町役人である」と答えたところ、「しかるべきところへ案内しろ」と命じたというのです。

 一揆勢の集団がリーダーたちに率いられて甲府城下に入ってきた時、それに対応したのは町役人たちであったらしいことがこの記述からわかります。

 「しかるべきところへ案内せよ」の「しかるべきところ」とはどこか。

 彼ら一揆勢が打ちこわしの対象とした米穀商や質屋、札差(ふださし)などの豪商であったでしょう。一揆勢のリーダーは町役人たちに、そこへ案内するように命じたのです。

 不特定多数の商家を打ちこわすのが目的ではなく、打ちこわす対象は絞られていたと考えられます。

 結局、甲府城下で打ちこわされたのは13軒でした。

 「洞貝(ほらがい)・どら・ミやう鉢を鳴し騒き立、声天ニ響く、并(ならびに)三間計(ばかり)の竹竿ニ赤き盆燈籠を透間(すきま)もなく結付、紙の簱・紙の幟を立…此時末々往還筋松明(たいまつ)絶間なく見へ来る」

 鳴り物としては、法螺貝・銅鑼・鉢などが使われ、それで景気を付けて騒ぎ立て、その声が天にも響くほど。

 また10mほどの竹竿に赤い提灯を隙間なく結び付けたものや、紙の旗や幟を押し立てて進み、また夜は松明を焚いて進むから往還(街道)筋はその赤々とした松明の火が絶え間なく続いて見えたというのです。

 「凡(およそ)七八千人も可有之(これあるべく)と覚候」「万以上の人と被申候也」とあるように一万人前後の一揆勢が、甲州街道などを使って石和方面から甲府城下に乱入して来たことになります。

 

 続く (次回が最終回)

 

〇参考文献

・『山梨県史 資料編13 近世6上』(山梨県)



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