鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

甲州街道を歩く-笹子峠~甲府まで その8

2017-10-03 07:31:15 | Weblog

 

 『←旧甲州街道』の案内標示に従って左折。

 道幅はかつての街道を思わせるものとなり、ゆるやかに下って行く道の両側に人家が並びます。

 左手の突き出し屋根のあるトタン屋根の人家には、入口に白い暖簾が下がり、その右手に「大黒屋 さんがむかふぇ」とありました。いわゆる「古民家カフェ」であるようです。

 道はその先でいったん左へ曲がりますが、その右手のフェンスの向こうにあったのが幹の部分がN字状に曲がった松の木で、樹齢はどれほどかわからないものの旅行く人の目を引いた松樹だと思われました。

 ここから道はぐんぐん下り坂になって右へとカーブしていきます。

 そして笹子沢川を「古道橋」で越える手前で右手を見上げると、お城の石垣のような見事な石組みがあり、その石垣の上は雑草が繁茂している様子。

 かつてはその見事な石垣の上に人家があったのでしょう。

 駒飼宿は、笹子沢川を「天狗橋」で渡ったところからふたたび笹子沢川を渡るこの「古道橋」あたりまでの間、山の斜面を屈曲しながら下って行く甲州街道の道筋にあったことがわかります。

 山の斜面にあるから、城のような石垣を斜面側に造ってその上に人家を構えることもあったわけです。

 古道橋を渡って山際の薄暗い道をしばらく進むと目の前に中央自動車道の高架橋が現れ、その先を高架橋を潜って進んで行くと、日川を渡ったところで「古跡 金岡自画地蔵尊碑」と「史跡 鶴瀬関所跡」の標柱と案内板がありました。

 それには次のようなことが記されていました。

 甲州道中鶴瀬宿の東にあるこの地は、北は山々に閉ざされ、南は日川に阻まれた天然の要害で、郡内領より笹子峠を越え国中(くになか)に通ずる要所となっており、ここを通らずしては江戸への出入りが難しいところからここに関所が設けられた。

 この関所は甲州道中の小仏関に次ぐ口留(くちとめ)番所として上り男手形不要、女上下とも改めで、江戸への鉄砲の入りと大名妻女の江戸からの脱出、つまり「入り鉄砲と出女」を特に取り締まった。

 女の番所通過には、代官・甲府勤番支配・駿府町奉行の手形が必要であり、諸国の神仏参詣には住所地の名主手形で通行させた。

 番人一人(高20俵・二人扶持)がいて、下番二人ずつを村役として鶴瀬・日影・初鹿野の三村が務めた。

 関は明六ツ(午前6時)に開門、暮六ツ(午後6時)に閉門。

 参勤交代の際に利用した藩は、信濃高遠藩、高島藩、飯田藩の3藩。

 道路の拡張などにより現在は往時の面影は失われている。

 この「鶴瀬関所跡」のほんそばを国道20号が走り、その信号のある横断歩道を渡るとその先にも旧道の続きがあり、そこを入ると「甲州道中 鶴瀬宿」と記された標柱が立っていました。

 その側面には、「江戸より第三十一宿、江戸三十里二十七丁…」とも記されています。

 ここには「甲州道中 鶴瀬宿」の案内板」もありました。

 それによると、天保14年(1843年)の人別は242人、家数58軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠4軒。

 問屋場は本陣に隣接してあり、その問屋場には問屋一人、年寄三人のうち一人と馬指一人が毎日詰めていました。

 人馬の継立は駒飼宿と合宿(あいじゅく)で、一ヶ月のうち一日から二十日までの間を鶴瀬宿が務めたとのこと。

 鶴瀬宿に属する加宿は、小佐手・初鹿野の両村。

 問屋は大名武家等の荷物を伝馬輸送する事務を執り、村人の多くは農林業の傍ら輸送に従事。

 ほかに旅籠や茶屋を営む小商人がいました。

 この案内板には「現在の地形図と甲州道中分間延絵図解説による鶴瀬宿周辺図の対比」とした地図が載せられており、それを見ると、私が歩いてきたコースは日川を越えるあたりで甲州街道から大きく外れていたことがわかりました。

 いったん日川が流れる河原に下って「鶴瀬橋」で日川を渡り、そこから坂道を上がって「地蔵」や「天神」を左手に見て鶴瀬の「口留番所」に至り、そこを抜けると「鶴瀬宿」の家並みに入ったことになります。

 そこで、横断歩道をふたたび渡って旧道らしき脇道がある地点へと戻り、その脇道(坂道)を日川の方へと下って行きました。

 

 続く

 

 



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