鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

甲州街道を歩く-笹子峠~甲府まで その9

2017-10-04 07:12:20 | Weblog

 

 その脇道はすぐに急坂となり、両側の家の土台は石垣になっています。

 急斜面に石を積み上げて石垣とし、その上に平地を造って家が建てられています。

 丸石が載った妙号塔や、やはり丸石が頭の部分になっている地蔵などを右手に見て急坂を下って行くと、南の崖下を流れる日川(ひかわ)のやや手前で道は途絶え、左手の畑で働くご夫婦の姿が見下ろせました。

 「ここから先は行けますか」

 とお聞きすると、

 「昔は橋があって行くことができたけれど、崖が崩れてこの道は通れなくなった」

 とのこと。

 妙号塔や石地蔵が道端にあることから、この道がかつての甲州街道であることは確かですが、このあたりから左に折れて日川を渡って駒飼宿へと続いていた旧道は、崖崩れかあるいは川の氾濫などによって失われてしまっていることがわかりました。

 日川の河原へといったんぐっと下って日川を渡ってから、急坂を鶴瀬宿へと上がって行ったのが旧街道で、これは現在の国道20号の「立会橋」などのように長い橋を架けられなかった江戸時代においてはごく普通のことであったでしょう。

 なるべく川幅が狭くなるところまで迂回したり、谷を下ったりして川を越えるのです。

 確かにこのあたりは、「北は山々に閉ざされ、南は日川に阻まれた天然の要害」であり、急な坂道を上がって鶴瀬宿に入るその入口となるところに「鶴瀬関所」(鶴瀬の口留番所)が設けられていたのも当然であると思われました。

 道(坂道)を戻って国道20号を渡り、鶴瀬宿のかつて本陣や問屋、脇本陣があったあたりを右手に見てしばらく進むと、右手に「石尊大権現」および「秋葉大権現」と側面に刻まれた「常夜燈」が現れました。

 裏側には「享和三」という年号が刻まれており、この常夜燈が西暦では1803年に建てられたものであることがわかります。

 「秋葉大権現」は火伏せの神であり、この地における秋葉山信仰を示すもの。

 「石尊大権現」は相州の大山信仰を示すもの。

 この常夜燈は、郡内一揆勢や歌川広重らももちろん目にしたものであることになります。

 そこからすぐに国道に出てしばらくそのまま国道を歩いていくと、右手に「曹洞宗鶴瀬山真竜寺」への入口があり、そのあたりの「やまと市民バス」バス停が「志々久保」。

 そのほんの先に「古跡 血洗澤」の標柱があり、その側面には「この地は土屋惣蔵が逃亡した跡部大炊助を追尾して斬り、この地で首を洗い流したと云われています」と記してありました。

 やがて「共和洞門」にぶつかったところで、右手に「観世音菩薩」と刻まれた石塔があり、そこから洞門の上の方へ延びていく石段がありましたが、その道は途中で雑草が繁茂していたためその道を進むことは断念して、洞門を抜けて左手に入って行く道筋にあったのが「観音の 甍見やりつ 花の雲」と刻まれた芭蕉句碑でした。

 さらに次の洞門を抜けていくと、左手にスモモやモモ、ブドウなどを栽培しているという農園の看板があり、その看板に「この道下り50m旧甲州街道です」と記してありました。

 「共和洞門」は銘板によると平成20年に「共和洞門(その3)工事」が完了しており、甲州街道はこのあたりにおいて別のルートとしてあったのではないかと思っていましたが、案の定、農園の看板によればここから左下に下って行ったところに旧道が走っているらしいことを知りました。

 そこでその坂道を、鶴瀬方面へと戻って行く形で下って行くことにしました。

 

 続く

 

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