鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

歌川広重の歩いた「みのぶ道」 その4

2018-01-10 07:44:02 | Weblog

 

 「南みのぶみち」と刻まれた復元道標のあるところから「みのぶ道」(河内路・駿州往還)が南方向へと延びています。

 しばらく進むと「飯豊橋北」バス停(山梨交通)があり、それを過ぎてまもなく橋が現れました。

 その橋が「飯豊橋」(いいとよばし)であり、下を流れる川が荒川でした。

 かつてはこの荒川に架かる橋はなく、「河内荒川の渡し場」がありました。

 橋の上から上流を眺めると川と河川敷の向こうに甲府盆地を取り囲む山々がうっすらと見え、左手には高層ビルなど甲府の市街地が見えます。

 橋から北側を眺めるとやはり甲府の市街地の背後に金峰山などを含む連山があり、下流方向には鳳凰三山や南アルプスが聳え、南方向も山が連なっています。

 甲府城の天守台からの眺めもそうですが、甲府盆地が高い山々の連なりにより、まるで屏風に取り囲まれているようであることがよくわかります。

 飯豊橋を渡りきると、「昭和通り」から右斜め方向に分岐する細道があり、その入口には鉄柵が二つあって車では入れないようになっています。

 さらにその先へとその道は続いており、こちらが旧道すなわち「みのぶ道」と判断して、その道を進んでいきました。

 やがてその道は「昭和通り」と合流。

 合流したあたりの町名は「国母一丁目」。

 東へ少し入ったところには「甲斐之国下石田 子安八幡社」と刻まれた石標がある古い神社もあり、このあたりがかつては「下石田」であったことがわかります。

 「昭和通り」に面した「AOKI」の手前右側に、やはり旧道らしき道が分岐して「昭和通り」に平行するように延びており、その道へと入ると、やがて「ここは昭和町 西条 4225番地」と記された地名表示が現れ、しばらくして「『義清社』道標」と記された案内板が立っていました。

 道角の四角い石柱には確かに「義清社」と刻まれています。

 案内板によると、この道標は「昭和町指定文化財」で全高195.0cm。

 近世の西条村地内を南北に通る河内路(身延道)沿いに、寛政6年(1794年)7月22日に設置されたもの。

 「義清社」は甲斐源氏の祖である源義清(1075~1149)を祀る神社で、寛政6年は源義清の650年忌にあたり、7月21日より23日の3日間にわたって大神事が執行されており、道標もこの大神事の中日に設置されたもの。

 「義清社」道標は、神社参拝者の利便を図るだけではなく、富士川舟運の物資の運送や身延参詣で往来する者にとっても、旅程を測る目安となった道標であり、甲府盆地の平地部を貫く河内路に残った歴史的建造物としての道標は、近世往還の景観を知ることができる貴重なものであるといったことが記されていました。

 銘文によれば、「甲斐源氏祖御旧跡」(義清社)は「従是東江二丁入」のところにありました。

 つまりこの辻より東方向へ200mほど入ったところにあったことになり、それは現在もその場所にあります。

 この案内板と道標により、この「昭和通り」に平行する細道が「身延道」(河内路)であることと、このあたりがかつては西条村であることを確認することができました。

 「身延道」は西条村(中巨摩郡)の中を南北に走っていたことになります。

 1942年(昭和17年)に、西条村と常永村が合併して昭和村が発足しているから、「昭和通り」の名前は、甲府から昭和町へと向かう通りとして付けられたものであるのでしょう。

 かつての「身延道」は、この「昭和通り」とほぼ重なる形で延びているのですが、歩いてみるとところどころにかつての往還の様子を伺えるところが残っており、この西条の「義清社」道標のあるあたりもそのような場所でした。

 道標のある辻からしばらく進むと、ふたたび「昭和通り」に合流します。

 その合流する地点の右側に、石の基台の上に載った丸石道祖神があり、その左横には石製の常夜燈らしきものがありました。

 丸石道祖神の前には清水の入った真新しいガラスコップが供えられており、この地域で道祖神信仰が今でも続いていることを示していました。

 

 続く

 

〇参考文献

・『甲州街道』(山梨県教育委員会)



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