鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2014.5月取材旅行「さがみ野~小園~海老名」 その10

2014-06-06 06:18:23 | Weblog

 崋山の「家はどこか」との問いに答えもせず、家へと走って行ったいが栗頭の男の子は、前に私は三歳の「留吉」と推定しましたが、これは八歳の「栄次郎」であったかも知れない。

 大川清蔵家について、崋山は次のように記しています。

 「大きやかなるおもやにて、下屋、木ごや、左り右にならびて、粟(あわ)所せう干ならべ、犬鶏ゐ守りて、かの武陵ともいふべし。」

 大きい母家があって、その左右に下屋と木小屋が並んでいたというのです。

 「縁のほとりに立てものをこふ」とあるから、母家には縁側(南向き)がありました。

 崋山は大川清蔵家の前庭を描いています。

 それを見ると、これに描かれている建物は「母家」ではなく「木小屋」であるように思われる。

 外壁のところに薪が積み上げられているからです。これは近くの「小園っ原」などの雑木林から切ってきた丸太を、薪にしたものであるでしょう。

 「木小屋」の中には農作業の道具や桶などのようなものが置いてあります。

 土蔵はなかったようであり、この「木小屋」が農具や桶(漬物)や樽(味噌樽)などの保管場所であったのでしょう。

 絵から判断して、この「木小屋」は「母家」の右側(東側)にあったものと思われる。ということは「下屋」は「母家」の左側(西側)にあったということになる。

 「母屋」と「木小屋」の間の庭には筵が敷かれ、その上には粟が一面に干し並べられていました。

 『綾瀬市史 民俗調査報告書 6 小園の民俗』には、小園村の東側の「上の原」は「小園っ原」とも呼ばれ、その畑地ではサツマイモや粟が栽培されていたという記述がありましたが、大川家もその畑地で粟を栽培していたものと思われる。

 収穫した粟を、天気のよい日には家の庭先に筵を広げ、干す作業を行う時期であったのです。

 その庭先には犬が放たれ、鶏が鳴き声をあげて動き回っています。

 「母家」はどういう構造であったのだろうか。

 崋山は、「母家」の中を描いています。

 これを見ると、お銀さまが勝手(かって)にいて、その勝手の奥に土間が続いているようです。

 崋山が幾右衛門と応対している場所には囲炉裏がある。

 貴賓を招き応対する場所と言えば、奥の間(おくのま)か座敷(ざしき)ということになる。

 勝手(お勝手)は普通母家の北側にあるから、崋山は縁側や庭に背中を向けて正座しているということになる。

 畳の部屋はなく、すべて床板であり、崋山が座っているところには茣蓙(ござ)のようなものが敷かれています。

 そのように見てくると、手前が奥の間(オク)で囲炉裏があるところが座敷、その左側(北側)が勝手で、それしどうも座敷の向こうの土間へとつながっているようです。

 土間と座敷の間には障子があります。

 土間は、庭先へと続き、その「母家」と「木小屋」の間の広い庭には粟が筵一面に敷かれ、また犬や鶏が放し飼いにされています。

 幾右衛門の背中側には「納戸」があり、そこには押入れや仏壇などがあったものと思われる。

 崋山の背後には「縁側」があり、その縁側からは庭先を望むことができたでしょう。

 もちろん「母家」は南側を向いており、縁側からは広い庭越しに南方向の眺めが広がっていたはずです。

 長男の清吉は馬を引いて厚木から戻ってきました。

 ということは馬も飼っているということになる。

 では、馬小屋はどこにあったのか。

 「母家」の西側の「下屋」が、実は馬小屋であったのだろうか。

 清吉は、厚木まで馬を引いて戻ってきたのですが、では何を厚木へ運び、厚木から何を運んで戻ってきたのだろうか。

 興味あるところです。

 

 続く

 

〇参考文献

・『渡辺崋山集 第1巻』(日本図書センター)

・『客坐録』〔(復刻渡辺崋山真景・写生帖集成 客坐録・獄庭素描 他〕(平凡社教育産業センター)

・『綾瀬市史 民俗調査報告書 6 小園の民俗』(綾瀬市)

・『大山道今昔』金子勤(神奈川新聞社)



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