その大きな農家の縁側のほとりに立った崋山は、奥に向かって「御免、こちらは大川清蔵のお宅か」と声を掛けました。
すると頭に手拭をかぶった年とった女性が出てきて、縁側に立っている武士の姿に驚いて、「どちらからいらしたのでしょうか」とおそるおそる問いかけました。
家にやってくるお侍(さむらい)といえば、年に一度の、佐倉藩の「人別改め」の役人ぐらい。
お侍が不意にやってくるということに、あまりいい印象は持っていなかったでしょう。
おそるおそる問いかけたその女性の顔を見て、崋山は次のように思いました。
先ほど道端でびっくりして立っていた、いが栗頭の男の子は、「お銀さま」の面影によく似ていたが、この女性の顔は自分の覚えている「お銀さま」の顔とは違う。
もしかしたら姑(しゅうと)である、清蔵の母親であるのかも知れない。
しかし、20余年もむかしの顔のままであるはずはない、と思い直した崋山は、その女性の顔をつくづくと見てみました。
すると耳の下に大きな疣(いぼ)がある。
それを見た崋山は、やはりこの女性が「お銀さま」だと確信しました。
崋山は、8歳の「栄次郎」の「鼻のわたり」から「眉毛の間」にかけて、「お銀さま」の面影を見つけ、そして「耳の下」の「大きやかなる疣(いぼ)」に、「お銀さま」である証拠を見つけています。
少年であった崋山(幼名虎之助)にとって、特に「お銀さま」の耳の下の大きな疣(いぼ)は印象的であったのでしょう。
耳の下の白い肌に、ちょっと目立つ大きな黒い疣。
「まち」自身には目に入らぬ耳の下の疣が、彼女がひざまずいたりした時に、虎之助(崋山)の目には印象深く目に入ったのです。
その女性が「お銀さま」であることを確信した崋山は、おもむろに、そしてややいたずらっぽく「謎かけ」していきます。
すぐに自分の名前や素性を明かさず、いたずらっぽく「謎かけ」をしていく姿に、少年の頃の崋山(虎之助)と「お銀さま」(子守女中の「まち」)の親しかった関係をうかがうことができます。
「まち」は、自分のことをきっと覚えているはずだ、あるいはきっと思い出してくれるはずだという確信。
その確信は、幼かった頃の二人の間の濃密に詰まった思い出の数々に由来しているものであるでしょう。
おそらく、当時世子(せいし)〔藩主の跡継ぎ〕であった亀吉を介して、二人の間に濃密に詰まった思い出があったと私は推測しています。
二人が慈(いつく)しんだ亀吉は、文化3年(1806年)の2月に逝去し、「まち」と藩主康友の間に友信(幼名鋼蔵)が生まれたのはその年の11月。
おそらく虎之助(崋山)と「まち」は、健康であった亀吉が幼少にして死に至るまでをほん傍(そば)で見ており、亀吉との楽しい思い出や、またその夭死という深い哀(かな)しみを共有していたことでしょう。
崋山は、おもむろに問いかけます。
「わたしは子どもであった時、あなたには大変可愛がってもらった者です。そのご恩にいささかでも報いようと、厚木まで行く途中、その道を迂回してあなたの居所をここまで尋ねて来てしまいました。さあ、私の顔は誰に似ているか、お考え下さい。」
すると、その女性は、なおいっそうかしこまってしまいました。
続く
〇参考文献
・『渡辺崋山集 第1巻』(日本図書センター)
・『小園の歴史』(小園を尋ねる会)
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