
富士山が大爆発したのは、今から300年ほど前の宝永4年(1707年)11月23日(旧暦)午前10時から11時頃のこと。
山頂から東南斜面、海抜2700mほどまで下った位置が新しい大噴火・爆発の火口となりました。火口は長径1300m、短径1000m、深さも1000mに達しました。
私は、御殿場口から初めて富士山に登ってから下山の途中、その噴火口と宝永山に立ち寄ってみましたが、宝永山の突き出したところから見えた爆裂口の大きさに驚き、300年前の噴火が想像を絶するものであったことを知りました。一方、その突端からは、穏やかな太平洋の海原を見晴るかすこともできました。
この日から続いた富士山の大爆発による火山灰(テフラ)による被害がいかに大きなものであったかは、永原慶二さんの『富士山宝永大爆発』に詳細に記されています。
降砂がようやく終わったのは、半月ほど後の12月8日のこと。
上空高く噴き上げられたテフラは、その直後から、おりからの冬の強い偏西風に乗って富士山の東方地域へと運ばれ、富士山の東側はもちろんのこと、相模の足柄平野・小田原方面を埋め尽くし、秦野・藤沢・横浜方面にも降り積り、そして新井白石が『折たく柴の記』に記したように、江戸の町々にも及んだのです。
秦野で40~50cm、藤沢で20~30cmに達したという。
江戸では何cmほどだったのだろう。まず白灰が降って草木が白くなり、その後、黒灰に変じて大量に降ったと白石は言う。12月8日には降灰は終わったというから、江戸に雪が降った12月9日までには、江戸における降灰は終わっていたと思われますが、「この頃人びとはのどをいため、せきに苦しむ」とあって、降灰が風で舞い上がったりすることによって、江戸の人々はのどを痛め、咳をする人が多かったことがわかります。
江戸でさえそうであったのだから、それより西方の降灰の多かったところでは、なおさらのことであったでしょう。
続く
○参考文献
・『富士山宝永大爆発』永原慶二(集英社新書/集英社)
山頂から東南斜面、海抜2700mほどまで下った位置が新しい大噴火・爆発の火口となりました。火口は長径1300m、短径1000m、深さも1000mに達しました。
私は、御殿場口から初めて富士山に登ってから下山の途中、その噴火口と宝永山に立ち寄ってみましたが、宝永山の突き出したところから見えた爆裂口の大きさに驚き、300年前の噴火が想像を絶するものであったことを知りました。一方、その突端からは、穏やかな太平洋の海原を見晴るかすこともできました。
この日から続いた富士山の大爆発による火山灰(テフラ)による被害がいかに大きなものであったかは、永原慶二さんの『富士山宝永大爆発』に詳細に記されています。
降砂がようやく終わったのは、半月ほど後の12月8日のこと。
上空高く噴き上げられたテフラは、その直後から、おりからの冬の強い偏西風に乗って富士山の東方地域へと運ばれ、富士山の東側はもちろんのこと、相模の足柄平野・小田原方面を埋め尽くし、秦野・藤沢・横浜方面にも降り積り、そして新井白石が『折たく柴の記』に記したように、江戸の町々にも及んだのです。
秦野で40~50cm、藤沢で20~30cmに達したという。
江戸では何cmほどだったのだろう。まず白灰が降って草木が白くなり、その後、黒灰に変じて大量に降ったと白石は言う。12月8日には降灰は終わったというから、江戸に雪が降った12月9日までには、江戸における降灰は終わっていたと思われますが、「この頃人びとはのどをいため、せきに苦しむ」とあって、降灰が風で舞い上がったりすることによって、江戸の人々はのどを痛め、咳をする人が多かったことがわかります。
江戸でさえそうであったのだから、それより西方の降灰の多かったところでは、なおさらのことであったでしょう。
続く
○参考文献
・『富士山宝永大爆発』永原慶二(集英社新書/集英社)
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