鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.8月取材旅行「谷中~本郷~万世橋」 その1

2009-08-10 07:08:42 | Weblog
代々木上原から東京メトロ千代田線に乗り換え、根津駅で下車し、「不忍通り」に出たのが6:45。その不忍通りを右手へ歩いてすぐに右折する通りが「言問通り」ですでに歩いている通り。通りはゆるやかな坂道となりますが、この坂道の名前は「弥生坂」(「鉄砲坂」とも)。

 坂途中の案内板によれば、「鉄砲坂」と言われたのはかつてここに幕府鉄砲組の射撃場があったからであり、また「弥生坂」と言われるのは、こあたりのかつての旧町名は「向ヶ丘弥生町」であり、その町名の由来は、かつてここには水戸藩中屋敷があって(現東京大学農学部)、あの徳川斉昭が、文政8年(1828年)3月(弥生)、この辺りの景色を詠んだ歌碑を屋敷内に建てたのですが、その歌によるのだという。その歌とは、

 「名にしおふ春に向ふが岡なれば 世にたぐひなき花の影かな」

 というものでした。

 「向ふが岡」と「弥生」をつなげて、「向ヶ丘弥生町」とし、そこにある坂だから「弥生坂」としたのです。

 「弥生町」と言えば、「弥生式土器」を思い浮かべますが、その「弥生」というのは「弥生町」に由来し、その「弥生町」は徳川斉昭の呼んだ歌およびその歌を詠んだ月(弥生=三月)に由来していた、ということを初めて知りました。

 この弥生坂をほぼ上りきったところ、「ケアワーク弥生」のところで右折してしばらく進むと、右手の家の塀に「旧居跡」とあり、誰の旧居跡かと見てみると、「此の世の中で唯ひとつのもの そは母の子守歌  サトウ八チロー」とあり、サトウ八チロー(1903~1973・佐藤紅緑〔こうろく〕の長男)の旧居跡であることを知りました。

 この閑静な住宅街の通りの突き当たりを左折すると、正面および左手に見えてくるのは東大農学部。すなわち今歩いたところの住宅街は東大農学部の東側に広がっているのです。

 すぐの突き当たりを右折して、その突き当たりをさらに右折すると、コンクリートの石段を下ることになりますが、これを「お化け階段」というらしい。階段もその下の路地も曲がっていますが道なりに進み、根津1-22で左折すると、正面にある大きな建物が日本医科大学大学院の校舎でした。そして左斜め前に根津神社の大鳥居。ここにはすでに何度か来ており、「ああ、ここへ下りて来たのか」という感じでした。

 ここから根津神社の境内へ今まではすぐに入っていましたが、今回はそのまま根津神社前(左横)の坂を上ってみることにしました。

 この坂にも途中に案内板がありました。

 それによると、この坂は「新坂(しんさか)」と言い、また「権現坂」とも「S坂」とも言われるらしい。

 「権現坂」というのは、「根津権現」(かつては根津神社はこう呼ばれていた)の表門に下る坂道であるから。「S坂」というのは、森鴎外の『青年』に「S坂」と出てくるから。S字状に曲がっている坂道であるということでもあり、また「Shin-Saka」のSでもあるのでしょう。

 右手の公共トイレに入ると、アブラゼミやニイニイゼミの声が聴こえてきます。本格的な蝉しぐれを聴くのは、今夏、初めてかも知れない。

 坂の右手には段々になった、年輪を感じさせる石塀が延びており、その石塀越しに、下の方に根津神社の楼門が見える(補修工事中)。

 坂道を上りきった左手も東大農学部。かつての水戸藩中屋敷はよほど広いものであったようだ。

 左に農学部の塀を見ながら閑静な通りを進み、日本聖公会東京聖テモテ教会のところで通りを戻ることにしましたが(7:15)、その農学部の塀際に「『青年』の散歩道」と記された標示がありました。農学部の森からはツクツクホウシの声も聴こえてきました。『青年』の散歩道、とは、森鴎外の散歩道でもあったわけです。

 通りを新坂まで戻り、坂を下りかかってすぐに左手下に根津神社が見える。新坂(S坂)をS字状にカーブしながら下って左折すれば大鳥居を潜って根津神社境内に入ります。

 楼門も本殿も補修工事でした。

 本殿前の銅燈籠の刻字を初めて子細に見てみましたが、「伊賀国主従四位下侍従藤原姓藤堂和泉守高敏 鋳物御大工椎名伊豫重体」と鋳造者の名前が刻まれていました。制作されたのは「宝永七年庚寅年四月」のことであるらしい。「宝永七年」とは西暦1710年。今から300年ほども昔の銅燈籠ということになります。将軍は六代家宣。五代綱吉は前年1月に亡くなっています。

 左手の池には亀が甲羅を見せながら泳いでいます。

 左手にある「賽(さえ)の大神碑」を、久し振りに見てみました。この「賽の大神碑」は、もともとは駒込の追分、すなわち旧中山道と旧岩槻街道(旧日光将軍御成道)の分岐点にあったもので、そこに明治6年(1873年)に建てられたもの。このあたりも蝉しぐれ。

 明治19年(1886年)に駒込肴町の亀泉酒井八右衛門によって建てられた石鳥居を潜ると、そこは根津裏門坂の通り(根津谷から本郷通りに上る坂道)。そこで左折し、東京消防庁本郷消防署根津出張所前を過ぎたところで横断歩道を右折。またまた「藪下(やぶした)通り」に入りました(7:36)。鴎外、一葉、そして啄木らが、しばしば歩いた通りです。


 続く


○参考文献
・『樋口一葉と歩く明治・東京』野口碩監修(小学館)
・『樋口一葉全集 第三巻(上)』筑摩書房



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