鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

明治の東京

2009-08-07 06:25:23 | Weblog
 この初田亨(とおる)さんの『東京 都市の明治』については、前に「勧工場」に触れたところで、それに関する記述を紹介しました。

 この本では築地居留地の外国人旅館のことや、銀座煉瓦街のことについても興味深い記述がたくさん出てきますが、とくに私が目から鱗(うろこ)が落ちる思いをしたのは、黒壁を持つ土蔵造りについての記述でした。

 初田さんによれば、土蔵造りの街並みが生まれたのは明治中期のことだ、というのです。

 「政府の強引な欧化政策のおしつけは、逆に、市井の人々による、江戸時代の黒壁をもつ土蔵造りの評価を高める遠因をなし、明治中期以降、東京の街に、土蔵造りの街並をつくりだす結果を導いたと考えられる。」

 東京に、土蔵造りの街並をつくりだすきっかけとなったのは、明治14年(1881年)に東京府知事と警視総監によって布達された火災予防事業であり、この火災予防事業では、防火の路線が決められて、その路線に面する建物は「煉瓦造」・「石造」・「土蔵造り」のいずれかにしなければならないと定められていました。

 この三種類の建築物の中から、多くの人々が選んだのが伝統的な土蔵造りであった、というのです。

 この土蔵造りの街並が明治中期に出来上がったという点においては、川越も共通しています。

 川越では、明治26年(1893年)3月17日夜半から火災が発生し、この大火で、川越町約3300戸のうち40パーセントに近い1300戸あまりが焼失しました。

 この火災後まもなく、川越の商人たちが争うように建てたのは、土蔵造りの店舗(「店蔵」)でした。この川越の土蔵造りの建物の特徴は、2階建平入りで下屋庇(ひさし)を持ち、背の高い屋根の箱棟と黒漆喰塗磨仕上げの壁を持つ…といった点で、これらは幕末から明治にかけてみられた、日本橋付近の店蔵の特徴と共通するものでした。

 川越の土蔵造りの街並は、江戸文化を受け継ぐものであるとともに、明治中期の東京の土蔵造りを直接的に反映したもの、であったのです。

 東京の街並の大多数の建物が土蔵造りになったのは、江戸時代からではなく、先ほど触れた明治14年の布達からであり、この明治14年から明治20年(1887年)にかけて、東京の街並はその景観を大きく変えていった、ということです。

 そしてこの土蔵造りは、明治中期から後期にかけて、全国各地に伝播していったというのです。

 これは、黒漆喰塗瓦葺きの土蔵造りの商家が連なる街並みが、江戸時代よりずっと連続してきたものである、との思い込みを見事に打ち破るものでした(たしかに日本橋界隈のように、部分的に連続していたところはあったのですが)。

 「目から鱗が落ちる」と言ったのは、そういうことです。

 この本の解説は、陣内秀信さんですが、「明治の錦絵や写真が示すように、現実の東京の都市風景は、洋風と和風が混在した摩訶不思議な建物が建ち並ぶ独特の表情を見せていた」とし、「江戸以来の伝統技術を受け継ぐ大工・棟梁たちの手になるこうした建築が、生きた現実を形づくっていたのである」と記されています。一方、銀座煉瓦街などの洋風化のためらいから土蔵造りの街並みが出来た事情についても本書にはよく物語られている、ともされています。

 「お雇い外国人やエリートの日本人建築家たちがつくる洋風建築ではなく、江戸以来の伝統的な技術を伝承する棟梁・職人たちと市井の人々のエネルギーがつくりだした『伏流』の建築、あるいは和洋折衷の様式に目を向ける。異色の東京論。」とカバー裏表紙にありますが、建築家の目から見たこういう「東京論」というものもあるのです。

 こういったことを前知識にして、『百年前の東京絵図』や『東京市電名所図絵』の中に描かれる、黒漆喰塗土蔵造りの商家が建ち並ぶ東京の街並みの風景を子細に見ていくのも面白い。


○参考文献
・『明治の東京』馬場孤蝶(現代教養文庫/社会思想社)
・『随筆集 明治の東京』鏑木清方(岩波文庫/岩波書店)
・『百年前の東京絵図』山本松谷画/山本駿次朗編(小学館文庫/小学館)
・『東京市電名所図絵』林順信(キャンブックス/JTB)
・『東京風俗志(上)(下)』平出鏗二郎(ちくま学芸文庫/筑摩書房)
・『貧民の帝都』塩見鮮一郎(文春新書/文藝春秋)
・『東京 都市の明治』初田亨(ちくま学芸文庫/筑摩書房)


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