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鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.5月取材旅行「鎌ヶ谷~白井~木下河岸」 その1

2011-05-05 18:12:40 | Weblog
 新京成電鉄の「鎌ヶ谷大仏」駅で降り、すぐに右折して木下(きおろし)街道に出て、鎌ヶ谷八幡宮の境内の参道前に入ったのが8:02。ここは「青面金剛」像の道標と、「百庚申」(ひゃこうしん)が印象的であったことを覚えています。

 「百庚申」とは、幕末に下総を中心に流行したものであるらしく、多くの功徳を得るために、青面金剛像(刻像塔)と庚申塔(文字塔)を百基造るというもの。「鎌ヶ谷八幡社」の境内には、その参道左手に、青面金剛像10基と庚申塔90基、合わせて100基が並んでいました(数えたわけではありませんが)。天保12年(1841年)秋から同13年(1842年)春にかけて造られたものだとのこと。

 今回は境内には入らず、すぐに参道前から、木下街道を白井方面へと向かいました。

 崋山一行は、この鎌ヶ谷宿の旅籠「鹿島屋」で酒一合を酌み交わし、そして夕飯を摂りました。時刻は午後4時過ぎ頃だろうか。「三人にて百四文、但し酒一合二十八文共に」と日記にありますが、行徳の「大坂屋」での昼食は三人分で八百文でした。その安さに、崋山は驚いたようだ。

 「鎌ヶ谷大仏」そのものには、前回は出合っておらず、それがどういうものか気になっていましたが、鎌ヶ谷八幡社前から木下街道を歩き始めてすぐに、車道隔てた左手にその大仏を見ることになりました。「大仏」という言葉から、かなり大きなものを想像していましたが、実際の「鎌ヶ谷大仏」はそれほど大きくはなく、左手の広い墓地の、木下街道に最も近い一画に、街道を向くように鎮座しています。街道を白井方面へ向かう人から見れば、すぐ左手に見えることになります。大仏から見れば、大仏は街道を行き来する人々を眺めていることになります。

 車道を渡って近寄ってみると、「鎌ヶ谷大仏」と記された比較的新しい案内板が立っていました。それによれば、所在地は「鎌ヶ谷市鎌ヶ谷1丁目5番」。「1丁目」ということは、このあたりが鎌ヶ谷宿のかつての中心地であり、崋山一行が夕食を摂った旅籠「鹿島屋」も、この付近の街道筋にあったものに違いない。

 造られたのは安永5年(1776年)。当時鎌ヶ谷宿の住人大国屋(福田)文右衛門が、祖先の冥福を祈るために、江戸神田の鋳物師多川(たがわ)主膳に鋳造させたもの。高さ1.8mの青銅製で、露座の釈迦如来仏。この大仏の開眼にあたっては、福田文右衛門宅から大仏墓地に至るまで、約3町(約327m)にわたる道路一面に琉球表を敷き詰め、僧侶50余名を招いて、音楽に合わせてねり供養をしたと言い伝えられているという。

 高さ青銅製の1.8mの大仏を神田からここまでどう運んだのか、街道に約300mに渡って敷き詰めた琉球表はどう手に入れたのか、招いた僧侶50余名はどこからやって来たのか、大国屋(福田)文右衛門のその財力はどこから生まれたのか、などいろいろ興味深いことはありますが、この案内板からはそれらのことはわからない。案内板の末尾にあるように、たしかにこの「言い伝え」や大仏は、「鎌ヶ谷宿の往時の繁栄を物語る」ものに違いない。

 鋳造させたのが安永5年(1776年)ということは、もちろん、白井宿へと向かう崋山一行も、街道左手に鎮座するこの「鎌ヶ谷大仏」(釈迦如来坐像)を目にしたことになります。おそらく広がる墓地の手前に、旅人を見下ろすように鎮座していたのでしょう。

 「鎌ヶ谷大仏」と刻まれた線香台には、真新しい仏花が供えられていました。

 木下街道に戻ると、「↑印西 白井 ←松戸 →八千代」と書かれた道標が、通りの上に張り出していました。木下街道は県道59号線であるということも、この道標からわかります。鎌ヶ谷八幡社にあった「青面金剛」像の石製の道標は、かつてこの両道が交差する十字路の角にあったらしい。その交差点を越えたのは8:05のことでした。



 続く


○参考文献
・『渡辺崋山 優しい旅びと』芳賀徹(朝日選書/朝日新聞社)


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