鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2014.9月取材旅行『游相日記』番外編-孫兵衛の歩いた道-その1 

2014-09-29 05:33:29 | Weblog
天保2年(1831年)9月20日(陰暦)の夜、大山街道荏田(えだ)宿の旅籠「升屋」に宿泊した渡辺崋山は、そこで二人の旅人に出会います。一人は相州下今泉村(現海老名市下今泉)の百姓佐右衛門という者であり、もう一人はやはり相州半原村(現愛甲郡愛川町半原)の孫兵衛という者でした。この相模の山奥の半原村に住む孫兵衛は、「むくつけき男」であり、秋の半ばから猪と鹿を撃ち取り、江戸へ出荷することを生業(なりわい)とする者でしたが、崋山に書画を求め、また俳諧をともに詠み交わした教養人でもありました。この孫兵衛は崋山に対して、半原村や厚木村などを支配する下野(しもつけ)烏山(からすやま)藩の苛政やまた天明年間に近辺で発生した「打ちこわし」(土平治騒動)について詳しく物語ったようであり、崋山はそのことをわざわざ日記に記録しています。孫兵衛の話が頭に残った崋山は、9月22日の夜から泊まった厚木宿において、知り合いとなった町医者の唐沢蘭斎や、また訪ねてきた侠客(きょうかく)駿河屋彦八から、烏山藩の苛政の実態を詳しく聞き出しています。水陸交通の要衝として江戸と変わらない程に繁栄を見せている厚木宿でしたが、烏山藩の苛政により、人々の間には強い不満がうっ積していることを崋山は肌で感じ取ることができたのです。もし荏田宿で孫兵衛から烏山藩の苛政についての話を聞いていなかったとしたら、崋山はこのような積極的な情報収集を厚木宿で行わなかったかも知れないし、またもしかしたら駿河屋彦八と出会うこともなかったかも知れない。崋山は日記の終わりのところで、「するがや彦八、厚木酒井村、きつい男」と記しています。また「侠客彦八像」も描いています。駿河屋彦八は、よほど崋山にとって印象深い男であったようです。半原の孫兵衛とは、9月21日の朝に別れているはず。というのも孫兵衛は崋山とは反対に、大山街道を江戸へと歩いて行ったからです。この孫兵衛の家が半原村のどこにあったかということについては、すでに触れたところであり、おおよその場所を推定することができました。この孫兵衛、半原村から江戸へと向かう途中で崋山と出会ったわけですが、厚木宿からは大山街道を歩いたものと思われる。では、半原村から厚木宿まではどういうルートを辿ったのだろう、ということに興味を持ち、実際にそのルートを歩いてみることにしました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む