鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2014.3月取材旅行「三軒茶屋~瀬田~二子玉川~鷺沼」 その7

2014-04-07 05:28:59 | Weblog
『二子・溝口 宿場の民俗』によれば、大山街道(矢倉沢往還)を介して江戸・東京に運ばれたものは、富士山麓の茶・タバコ・真綿・藍玉、伊豆の炭・わさび・しいたけ、秦野のタバコ、厚木の麦、丹沢の猪、相模川の鮎、多摩川の梨や桃、柿生の柿(禅寺丸)などでした。丹沢の猪は、菰(こも)包みの野猪を馬の背に乗せて運んだらしい。鮎は「鮎かつぎ人足」が天秤棒に担いで運びました。「鮎かつぎ人足」の風体は、印半纏(しるしばんてん)・半股引(ももひき)・草鞋(わらじ)にホッカムリというものであったらしい。相模川を夕刻出立した人足は、溝口の亀屋か千代鶴で休憩をし、江戸・東京日本橋の魚問屋に翌日の明け方には到着。帰りは昼前にまた亀屋か千代鶴で休んでいったという。昭和に入ってそのような「鮎かつぎ人足」の姿も見られなくなったとのこと。『大山道今昔』には、目黒大坂の「坂上榎茶屋」のところで次のような記述がありました。「幕末のころ、数人一組になって、相模川、道志川の鼻曲りアユを天びんにかつぎ、大山道を夜通しエッサホイ、エッサホイと来て、明け方近く、この榎茶屋に着く組もある。小田原ちょうちんを天びんの先から、はずし、肩の天びんを地面におきながら、その茶屋の軒に下げ、『大坂苦患(くげん)だ。団子屋起きたかい』とまだ森の中の木の葉の陰に眠っている小鳥も、びっくりするような大きな声で、板戸をたたきながらどなりこむ。」「鮎かつぎ人足」は、数人一組になって、夕方から翌朝にかけて、小田原ちょうちんを掛けた天秤棒で鮎を担いで、夜通し大山街道を走り、途中、溝口や目黒の大坂上で休憩したことが、以上のことからわかります。そして江戸・東京に着いたその日には帰途に就き、お昼前には溝口の宿(亀屋や千代鶴)で休憩していったのです。 . . . 本文を読む