鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2014.2月取材旅行「永田町~目黒川~三軒茶屋」 その14

2014-03-14 06:07:12 | Weblog
「富士塚と胎内洞穴─目黒新富士遺跡をめぐって─」(平野榮次)によれば、富蔵の言い分は以下のようでした。半之助が積年の恩を忘れるような態度に出たため、近藤家は門を閉鎖する計画に出たが、半之助は、富士山(富士塚)への参詣順路が変わるため商売(手打ち蕎麦屋)に影響すると考えて、地境の争論を持ち出した。文政8年(1825年)の5月23日(陰暦)、重蔵が地境確認のため本邸からこの山(富士塚)にやって来ることを聞いた半之助は、24~25名ほどの徒党を集めて威力妨害をしようとした。このようなことから翌年5月の刃傷沙汰が発生した、というもの(『槍丘実録』)。「江戸富士の庭園的考察─目黒富士の銘々について」(平山勝蔵)によれば、目黒新富士の工事は2回にわたって行われているという。第1回は、文政2年(1819年)の4月頃に着工し6月に完成を見たもの。第2回は、文政9年(1826年)の早春より始まったもので、別所坂上に表門を設け、別所坂下に木戸門を設けるとともに、表門を入った右手のところに家を建て増しして庭を設けたのだという。工事の監督は全て富蔵がやったものであるようです。富士塚は近藤家の別邸の敷地内にあるから、表門と木戸門を設けたということは自由に富士塚へ行けなくなったということであり、また蕎麦屋がある半之助の敷地と近藤家の敷地との間に大木を植え並べて垣根としたということは、半之助の蕎麦屋の座敷から富士塚が見えないようにしたということ。門を閉鎖するということは、富士塚に自由に登れないということであり、地境に垣根を作るということは富士塚が見えなくなるということ。この2つの近藤家の行為は、富士塚を造るために立ち働いた富士講の人々にとっては迷惑千万のことであり、また参詣者や見物人相手に蕎麦屋を始めた半之助にとっては致命的なことであったでしょう。重蔵の地境確認に威力妨害をしようとしたのは文政8年(1825年)5月23日であり、「嶽台の変」が発生したのは翌文政9年(1826年)の5月18日のことでした。いずれも6月1日の「山開き」の直前のことであり、富士講においては「山開き」ともなるとたくさんの江戸市中の人々(老若男女)が近くの富士塚に登り、参詣や遙拝(ようはい:実物の富士山を眺め拝むこと)をすることになっていたのですが、富蔵は、そのような富士講の人々の「新富士」登山を阻止しようとしたのです。 . . . 本文を読む