鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.8月取材旅行「九段下~大手門~皇居東御苑」 その最終回

2010-08-23 04:38:05 | Weblog
『大名屋敷の謎』には次のようにある。「御用聞となって江戸屋敷に出入りした農民にとり、最大の関心事は意外にも、武士たちの排泄物の汲み取り権だった。現在ではあまり想像できないが、その汲み取った屎尿(しにょう)が、農村では下肥として、彼らのメインの商品である農作物の貴重な肥料となっていたのである。」しかしその排泄物にも格差があって、大名の武家屋敷や大店(おおだな)の下肥は、「上」「中」「下」のうち「上」の評価であったという。著者の安藤さんは、具体的な武家屋敷として尾張藩江戸屋敷を挙げ、その御用聞であった武蔵国豊島郡戸塚村の名主中村甚右衛門という人物に焦点を当てる。この戸塚村というのは、現在のJR高田馬場駅のすぐ西側にあたる戸数40~50戸の小村。この村の代々名主をつとめていた中村家は、やがて尾張藩の汲み取り権を取得。実際に屋敷の中に入って汲み取り作業をしたのは、「下方」と呼ばれる下請けの農民たちであり、およそ50人弱。大半は武蔵国豊島郡、多摩郡、新座郡の出身で、今で言えば中野区、杉並区、練馬区などにまたがるという。中村甚右衛門は、尾張藩江戸屋敷の「汲み取り権を確保し、その実務を下請けさせることで利益を上げていった」のです。さらに甚右衛門は、汲み取りのネットワークを利用して、大名屋敷の広大な庭園の整備も請け負うようになり、近隣農村から掃除人足や杣人足(そまにんそく)を雇い入れ、大名屋敷の庭園の掃除や整備を行わせました。以上のような尾張藩の江戸屋敷を舞台に展開された「汲み取りビジネス」や「庭園ビジネス」を考えれは、当然そのようなビジネスは江戸に数多く存在した他藩の江戸屋敷などにもあったはずであり、そのビジネスは、江戸の近郊農村と密接なつながりがあったことを示しています。ということはおそらく江戸城も例外ではないということであり、日々の食材の調達も含めて、江戸近郊の農村と直接的・間接的に深いつながりを持っていたはずだということになります。請け負ったの誰か。下請けとして実際に働いたのはどういう人々であったのか。そしてそれらの運搬ルートや運搬手段はどのようなものであったのか。そういったことが具体的にわかるまとまった研究書はあるのかどうか(今のところ見出していないのですが)。江戸城の外堀や内堀周辺、また本丸跡を実地に歩いてみたあとの私にとって、たいへん興味・関心のあることがらです。 . . . 本文を読む