鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

斎藤真一さんの『明治吉原細見記』について その1

2009-07-09 06:14:50 | Weblog
樋口一葉は、下谷龍泉寺町に住んでいた頃、目と鼻の先にあった吉原遊郭に足を踏み入れたことがあったのだろうか、と考えてみましたが、今のところそこへ入ったという確かな記録は目にしていない。吉原は遊客しか入れなかったかというと実はそうではなくて、たとえば「酉の市」の時に限っては、吉原見物が誰にでもできるようになっており、鷲(おおとり)神社の参詣にかこつけて、若者たちが廓内に入ることができました。その時のすさまじいまでの賑わいの様子は『たけくらべ』に次のように描写されています。「此年(このとし)三の酉まで有りて中一日はつぶれしかど前後の上天気に大鳥神社(鷲神社のこと─鮎川)の賑いすさまじく此処をかこつけに検査場の門より乱れ入る若人達(わこうどたち)の勢いとては、天柱くだけ地緯かくるかと思わるる笑い声のどよめき、中之町(仲之町のこと─鮎川)の通りは俄(にわか)に方角の替りしように思われて、角町 京町処々(ところどころ)のはね橋より、さっさ押せ押せと猪牙(ちょき)がかった言葉に人波を分くる群もあり、河岸の小店の百転(ももさえ)ずりより、優にうず高き大籬(おおまがき)の楼上まで、弦歌の声のさまざまに沸き来るような面白さは大方の人おもい出でて忘れぬ物に思(おぼ)すも有るべし。」この酉の市の時に、検査場の門から乱れ入る男たちの姿は、酉の市に出かけた一葉が目にした光景であるのかも知れない。いつもは大門(おおもん)が唯一の入口で、仲之町は大門から人波が続くのに、この日ばかりは裏手にあたる検査場の方から大変な人波が続いていて、それゆえに「俄に方角の替りしように思われ」る程だったのです。その酉の市の時、検査場の門から乱入したのは若い男たち。では若い女たちは入れたのだろうか。入れたとしたら一葉も一緒に入った可能性もないわけではないが、おそらく入ってはいないように思われる。あと遊郭が描かれるのは、「春は桜の賑いよりかけて、なき玉菊が燈籠の頃、…朝夕の秋風身にしみ渡りて上清(じょうせい)が店の蚊遣香(かやりこう)懐炉灰に座をゆずり、石橋の田村やが粉挽く臼の音さびしく、角海老(かどえび)が時計の響きもそぞろ哀れの音を伝えるようになれば…」の部分。その、おそらく一葉が足を踏み入れなかった明治20年代の吉原遊郭の様子を知ることのできる恰好の本がありました。それが斎藤真一さんの『明治吉原細見記』でした。 . . . 本文を読む