鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008年 冬の熊本・長崎取材旅行 宮崎兄弟資料館

2009-01-04 09:54:52 | Weblog
宮崎八郎がこの玉名郡荒尾村(当時)の宮崎家に生まれたのは嘉永4年(1851年)のこと。父は長蔵、母はさきでした。八郎というからには八男かといえばそうではなく、長蔵の次男でした。長男は前年(嘉永3年)に生まれた武平でしたが、この年に亡くなっています。この八郎は文久2年(1862年)11歳の時に、荒尾出身の月田蒙斎(もうさい)の塾に入るために熊本城下に出て、そして慶応元年(1865年)の5月には、月田の推薦で藩校の時習館に入りました。明治2年(1869年)2月、八郎はその才を認められて時習館居寮生となり、翌年1月には東京遊学を命ぜられます。東京に着いた八郎は、尺振八(せきしんぱち・1839~1886)の共立学舎(本所にあった)に入り、ついで西周(あまね・1829~1897)の育英社や山東一郎の北門社に学びました。東京遊学以前が漢学中心であったとすると、遊学以後は洋学中心であったことになる。この東京遊学で八郎が学び取ったことは、西洋列強諸国の極東進出の現実と、四民平等にもとづいた社会変革こそ西洋列強に対峙していく方途であるという考えであったようです。さらに八郎は征韓派として征韓の即時断行を主張しました。明治7年(1874年)4月、政府が台湾出兵を決定すると、八郎は50名の義勇兵を組織して台湾出兵に参戦。しかしマラリアにかかったため9月末に帰国。この自宅での一ヶ月余の療養生活の中で、八郎が読んだのが、漢訳聖書と中江兆民訳の『民約論』でした。八郎がルソーの民約論(兆民が翻訳したものでカナまじり文の筆写本)を「泣いて読」んだのはこの時であったに違いない。なぜ八郎は「泣いて読む」ほどに、ルソーの民約論に感動したのだろうか。それまでの下地があったからこそ、その思想に触れた時、感動で打ち震えたと考えるべきでしょう。病が癒えた八郎は、翌明治8年(1875年)4月、同志を糾合して、山本郡の正院手永会所跡に植木学校を開設。ここで使用された教科書は、万国史・文明史・万法精理・自由之理・日本外史・史記等であり、中でも兆民訳のルソーの『民約論』は、植木学校の「唯一の経典たるが如き観」であったという。これを教科書として持ち込んだのは、かつてこれを病床で「泣いて読」んだ八郎その人でした。徳富蘇峰によれば、この八郎は「熊本における民権論の、唯一と云わなければ第一の急先鋒」であった人物であったのです。 . . . 本文を読む