唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 滅尽証(20)第五・経言無属難(6)

2018-04-15 11:07:34 | 阿頼耶識の存在論証
 第四は、以量成有識難(イリョウジョウウシキナン)を説明します。
 以量は推論です。成有識は第八識が存在することを明らかにしています。つまり、第八識が存在するという推論を以て経量部の主張を論破する科段になります。
 「然も滅定等の無心の位には、有心の位の如く、定んで実に識有るべし、根と寿と煖とを具して、有情に摂めらるるが故に。」(『論』第四・五右)
 (しかも滅尽定等の無心位の中においては、無心位の中にいる有情は、有心位のように必ず実に識があるであろう。有情は五根と命根と体温とを備えいるからである。)
 滅尽定の位にあっても、もっというならば、有余涅槃の位に在っても生きている。有為の世界に生きている有情なんですね。生きている限り、たとえ六識が滅したとして、そこに存在する有情は識も寿や煖等のように実に身を離れないものである、ということなのです。
 本科段は有部の主張や経量部の主張をまとめて論破しているわけです。
 有部に対しては、「従って、識も寿や煖等のように実に身に離れないと認めるべきである。」
 「滅尽定の中の有情に、もしまったく識が存在しないというのであれば、それは有情ではなく、瓦や瓦礫のようなものであって、有情ではないであろう。」 
 「たとえ六識が滅しても、第八識が滅尽定の中に存在しないというのであれば、滅尽定の中に存在する有情の根と寿と煖とを執持するのであろうか。それはあたかも死屍のようなものである。そこには寿等は存在しない。もしそうであるならば、滅尽定から再び出た後には識が生起することは無いはずである。」
 と論破し、
 経量部に対しては、種子論から論破をして本科段に至っています。能熏・所熏の熏習するもの、熏習されるところの蔵識がないならば、すべての識が滅したら再び識が生起することは無いという点からの論破なのです。
 結論として、
 「斯の理趣(リシュ)に由って滅定に住せる者には、決定(ケツジョウ)して識有って、実に身に離れず。」(『論』第四・五右)
 (このような理趣(道理)によって滅尽定に住する有情には必ず第八識が存在して実に身に離れないのである。)
 生きているのは、恒に外からの情報を内なる存在の根拠である蔵識が任運に(差別することなく)受け取り、第八識は、受け取った情報を常に最新の情報に置き換えて外に発信していくという機能を持っているわけですね。それは、私が生きていることは、内外の情報が私の内なる第八識を所依として発信されているということなのです。

 ここで問題となるのは、第八識の所依と、第七識の所依、つまり増上縁依(倶有依)です。染と浄の根拠を論証してくるのですが、このことは第十理証で染浄証として説明されます。簡単にいえば迷いと目覚めの根拠が第八識に宿されているということなのです。

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