唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 滅尽証(16)第五・経言無属難(2)

2018-04-03 20:30:00 | 阿頼耶識の存在論証
 後半は、有部の主張が論破される理由を挙げます。
 「諸の異熟識は、此の身を捨し已って、離して余身に託しぬる時に、重ねて生ずること無きが故に。」(『論』第四・五左)
  非常に分かりにくい文章です。ここは輪廻転生を否定していることを、有部の主張では認めることになる過失があると論破しているのです。
 直訳しますと、
 (諸々の異熟識(大乗では第八識・有部では第六識)は、この身を捨ておわって(死して)この身を離れて他の身に生まれかわる時、再び同じ身に生まれることは無いのである。)
 つまり、論破の理由は、有部の主張である滅尽定に入ったらすべての識は無くなるというわけです。しかし、滅尽定から出たら再び六識が生起すると云っているわけです。ざっくばらんにいってしまえば、亡くなった者が生き返るということです。そんなことはあり得ないと護法さんは論破しているのですが、ここには六識を超えた識、六識を根底から支えている識の存在がなければ、界・趣・生という異熟の説明がつかないと云っているのです。「阿頼耶識は断に非ず、常に非ず」また振り返って学んでいただきたいと思います。
 死有から中有の思想ですね。浄土真宗ではどのように考えられているのでしょうか。教えていただきたいと思います。
 次に経量部の主張を論破しますが、次回にします。

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