唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (73)

2017-05-21 10:15:01 | 阿頼耶識の存在論証
  
 『成唯識論』巻第八(『選注』p196)にですね、「三性と五事と相摂云何ぞ」と、問いが提起されています。この問いは、初能変で行相・所縁が明らかにされる中で、所縁の種子は「諸の相と名と分別との習気なり」を受けていると思うのですが、中心課題は第六意識ですね。現行識は意識されてあるもの、実有を顕しているわけですね。つまり、依他起として有るものです。
 依他起は、阿頼耶識の所縁の種子から現行されてくるわけですね。唯識教学の中で、一番大事なものが、存在するものの場所を明らかにしたのが阿頼耶識縁起、場所とあり方なんです。ものがどこにおいて存在するのか、その場所は阿頼耶識にあると同時に三種の自性として、そのものの在り方は、どういう在り方をしているのかを説き明かしているのですね。
 私は何に迷っているのか、そして何を欲しているのか、迷いの糸を諄々に説き明かしているのが唯識の特色ですなんですね。
 迷いは遍計所執と現わしていますが、これは相分と見分との間に形成される固定化・固執化・凍結化なんです。「識体転じて二分に似る」を分断してしまうのが妄想と言われる計度分別なのです。
 すべては依他起であって、遍計所執は非なる在り方なんですね。私たちは、関わり合い、支え合う縁起の世界を生かされている存在であることが、「三性と五事と相摂云何ぞ」の中で明らかにされたことなんです。
 五事とは、相と名と分別と正智と如如なのですが、三性との関わりでは、種子である相・名・分別、聞法に於いて得られる正しい智慧が依他起性として、如如は真如、大円鏡智ですが、私たちの生の事実は依他起なのです。依他起の於に分別を起すのが遍計所執ですが、実体として有るわけではありません。無を有と執しているに過ぎないのです。
 ちょっと飛躍しますが、
 龍樹菩薩は真実を空と表されました。実体化・固定化の否定ですが、唯識は実体化・固定化の否定を、すべては縁に依って現われてくるものとして、有情の存在を業縁存在として捉え直したんだと思います。 
 浄土教に於いて、業縁存在とはどういうことなのかを、善導大師は六字釈をもって、空・依他起は如来回向であると論証されたのではないかと内心思っています。宗祖はご自身の身の上で二種深真として、生きていることは業縁存在として生かされたいることをはっきりとされた上で、人間存在を、真実の働きの中で、我執を立ててしか生きていることが出来ない存在の悲しみを二回向四法、『教行信証」として開顕されたように思うのです。
 迷いは分別、我執ですが、依他起の中で我が計らいとして妄執している人間存在の悲しみですね。

 今日は「名色互縁証」です。
 「又契経に説かく、識は名色(ミョウシキ)に縁たり。名色は識に縁たり。是の如き二法は展転して相依ること、譬は束蘆(ソクロ)の倶時にして転ずるが如しと云う。若し此の識無くば彼の識に自体有るべからざるが故に。」(『論』第三・三十四右)
 『摂論』の第三にも同じことが説かれています。
 名と色。色は物資、名は心的なもの。色蘊が色、他の四蘊が名になります。名色で五蘊、身体を表しています、識は心。身と心の問題に答えています。身体は識を縁とし、識は身体を縁としている、そして展転して相続している、お互いに寄り添い支えあっているのです。ここで譬が出されますが、三法展転因果同時の譬として、所熏の四義、能熏の四義のまとめとして束蘆の譬が出されています。
 「三法展転して因果同時なること、炷の焔を生じ、焔生じて炷を燋(ショウ)するが如く、亦束蘆の更互に相い依るが如し、因果倶時なりと云うう理傾動せず。」と。束蘆の譬はよく出されます。支え合っているから立っていられるのです、支えが無くなったら、一秒たりとも立っておれません。
 この譬と同じように、第八識が無かったなら、身体を支えていく心が無くなってしまうであろう、と。いのちの世界は身と心が支え合って持続している、この根幹をなすのが第八識であると論証します。
 次科段では名と色の説明が出されます。次回にします。

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