唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? 『二十論』第一頌・第二頌。梵文和訳(引用)

2016-07-31 12:02:31 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 今回は、『唯識二十論』第一頌と第二頌の梵文和訳を、中央公論社『大乗仏典』より引用させていただきます。
 
 二十詩篇の唯識論(唯識二十論)
 「一 世界は観念である
 大乗においては、三種の領域からなるこの世界はただ表象にすぎないものである、と教えられている。経典(『華厳経』)に、
  勝者の子息たち(仏陀の弟子の呼称)よ、実に、この三界は心のみのものである、
 と言われているからである。心・意・認識、表象というのはみな同義異語である。ここに心と言われているのは、(それに伴って起こる心作用と)連合している心のことである。「のみ」というのは外界の対象の存在を否定するためである。
  このすべてのものは表象のみのものである。実在しない対象が(そこに)あらわれるがゆえに。あたかも眼病者が、実在しない網のような毛を見るように。(一)
 これに対し、人は反論する。
  (反論)「もし表象が(外界の)対象によって起こるのでなければ、(それが)空間的、時間的に限定されることも、(認識する人の)心に限定されないことも、また効用をはたすこともありえないはずである。(二)
 何がここに意味されているのか。すなわち、もしある色形(ルーパ。視覚の対象であるいろとかたち)などの表象が、色形などの対象によって起こされるのでなく、それらの対象がなくて起こるのであるならば、なぜその表象はある特定の場所に起こって、すべての場所に起こらないのか。しかもその場所においても、ある特定のときにのみ起こり、なぜつねに起こらないのか。(さらに、実在しない)髪の毛など(の幻覚)は、眼病のある人には起こるが、そうでない人々には起こらない。しかし、(ある色形の認識は)そのようにただひとりに起こるのではなく、その場所にそのときいあわせるすべての人々の心に起こるのはなぜか。また、眼病者が(幻覚で)見る髪の毛や蜂などは、髪の毛などの効用をはたしはしないのに、ふつう認識されるものは、(効用を)はたす。それはなぜか。
 夢の中で、食物、飲物、衣服、毒、武器などをわれわれは見ることがあるが、それらは食物などの効用を実際にはたしはしない。けれども、夢の中ではなく、(目ざめているとき認識されるものは)その効用をはたさないわけではない。ガンダルヴァの都城(蜃気楼のこと)は、実在しないのであるから、都城の効用をはたすことはない。けれども、(実在する都城)はその効用をはたすのである。だから、これら(の表象)が対象なくして(起こり、その意味で)実在しないものと同じであるならば、空間的、時間的な限定も、(特定)の人に限定されないことも、効用がはたされることも説明できない」
 (答論) それらが説明できないことはない。なぜならば、空間的限定その他は、夢と同じうように証明される。(第三ab頌)
 「夢と同じように」というのは、夢におけるようにということである。どのようにしてなのか。夢の中では、(実在する)対象はないけれども、すべての場所にではなく、ある特定の場所にだけ、村、園、女、男などというものが見られる。しかもその場所においても、いつでも見られるというのではなく、あるときだけに見られる。だから、対象が(外界に)実在しなくても、空間的に、時間的限定はありうるのである。
  また、特定の人に限定されないことは餓鬼のように(第三bc頌)
 なりたつと続くのである。「餓鬼のように」というのは、餓鬼たちにとってのようにということである。どのようにしてなりたつかというと(こうである)。等しく、
 みな膿河などを見るとき(第三cd頌)
 「膿河」とは、膿に満ちた河のことで(酥油(ソユ)つまり液化バターに満ちた瓶のことを合成語として)酥瓶(ソビョウ)と言うようなものである。というのは、餓鬼たちは(前世で行った悪い)行為(業)の結果として、同じ(餓鬼という)状態に陥っているので、すべての者が、(膿がありもしない河を)膿に満ちた河だと見てしまうのであって、ひとりだけがみるのではない。(河が)膿に満ちているのと同じように、尿や汚物などで満ちていたり、棍棒(コンボウ)や剣をもった守衛たちによって監視されていたりするのを、(すべての餓鬼たちは見るのだ)ということも、(詩頌の中の)「など」という語で含意されている。このように、対象が(外界に)実在しなくても、表象というものはひとりの心にかぎって起こるのではないということが証明されるのである。
  効用をはたすのは、夢の中のあやまちのように(第四ab頌)
 証明される、と知らねばならない。夢の中で、実際に性交することはないのに精子の漏出という形のあやまちがありうるように。このように、まず、(先に質問された)空間的、時間的限定をはじめとする四種の問題は、それぞれの比喩をとおして証明されるのである。」

 ここまで見てきたと思います。
 外界実存論者の反論も、論主の答えも的を得ているように思えます。
 認識対象がなかったなら、認識は起こらないというのも尤もなことですが、論主は夢の中の出来事で反論します。
 膿河については、一水四見の譬でもわかりますように、その境涯に応じて見る見方が違うということなのですね。そして、その境涯を決定するのが、「(第八阿頼耶識は)無始の時より来た一類に相続して常に間断なく是れ界と趣と生とを施設する本なるが故に。性堅にして種を持して失せざらしむるが故に」という、過去の業果として今の生が在るいうことなのです。此れを異熟と表しています。
 そして、夢の中の過ちのように、とまた夢の中の出来事をもって、夢の中では、(実在する)対象はないけれども、その効用はあると説明し、唯識無境を証明しています。

 ゆっくり、唯識無境の証明を『二十論』を通してみていきたいと思いますが、次回はその二、地獄の譬をもって、地獄の獄卒などが外界に存在しないことを明らかにしようとします。   (つづく)