唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

七月度 『成唯識論』に学ぶ。「仏教の時間論」テキスト (3)

2016-07-12 23:14:42 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 お知らせです。
 来る14日、八尾市本町の聞成坊様で『成唯識論』の講義を担当させていただきます。また24日の日曜日午前七時より暁天法話もさせていただくことになりました。皆様方よろしくお願いいたします。前後しますが、23日の土曜日午後二時よりJR鴫野駅前のカフェMarocaleさんで午睡の法話を担当させていただきます。テーマは「私の死生観」です。興味のおありの方は是非お越しください。お待ちいたしております。


 経部師等の説を論破します。
 経部とは、経量部を指します。経量部のshuchouha、説一切有部の三世実有説や上座部の生滅二時説とは異にして、大乗と同じように過去・未来は無で現在のみ有である(現有過未無)とう説によって因果相続の理を説きます。また種子をも説きますから、これだけ見ますと、大乗とほぼ同じように見えます。
 では、どこが違うのかですが、ここから本科段は説かれます。
 「経部師等の因果続すというも、理いい亦成ぜず。彼れ阿頼耶識有りて能く種を持すと許さざつが故に。」
 経部は「色心の中の諸の功能を即ち種子と名づく。」と、経部は阿頼耶識を説かず、色と心とで種子を持すと説きます。阿頼耶識があって、種子を持することを認めないのです。
 もし心法がなく色法のみの時には、色法が心の種子を持して、その種子からやがて心法が聖じ、心法のみで色法が無い時には、心法が色法の種子を持して、そこから色法が生じるので、色心が相続すると説きます。
 どうでしょうか、尤もな主張だとは思われませんか。しかしここには大きな落とし穴が潜んでいるのです。つまり、恒相続という問題です。上の説明のように、「心法が無い時」・「色法が無い時」というように、心法も色法も断絶する時があるのです。即ち断絶すれば種子を保持することはできないのです。
 阿頼耶識は恒時に種子を保持し熏習される場所なのですね。ですから阿頼耶識を説かない経量部の説は正しいとは言えないのです。

 総結して信を勧む。(結論)
 「此れに由りて応に大乗の所説の因・果相続すという縁起の正理を信ずべし。」(『論』)
 縁起について、
 「有為の諸法は縁よりして而も生ずるを名づけて縁起と為す。彼を勧めて大乗の正理を信ずべし。」(『述記』)
 と、縁起は有為の法において説かれるのです。因・果・生・滅は有為転変していますから、有為の法ですね。有為の法は世俗諦で説かれるものでって、勝義諦で説かれるものではありません。
 無為法において因・果・生・滅は仮に説かれたものであることが明らかにされているのです。因・果・生・滅の縁起の道理を通して無為法に触れていくことの大切さを説いているところだと思います。

 以上で因果法喩門を終わります。