『安田理深』選集より、覚書
「恒=一類相続(相続不断)非断
≫ 縁起の理(天秤の喩)
転=生滅変異 非常
熏習の四義から
相続は堅住性
一類は無記性
転は可熏を表す。「性堅密に非ずして習気を受く」
能熏と同時同処にして不即不離
阿頼耶識は「流の如し」転識は「波の如し」。『解深密経』「阿陀那識は甚だ深細なり、一切種子は暴流の如し」
「流」=因果相続=縁起の正理を表す。
阿頼耶識と諸法との縁起を、種子と現行との因果によって表し、ここは阿頼耶識と諸法の関係ではなく、阿頼耶識そのものの因果相続が語られる。
種子・現行に対しての因果ではなく、阿頼耶識の自類相続である。(恒随転)
異時を表す。種子が恒随転といわれるのは、阿頼耶識においてのみ可能である。種子生種子が成り立つ。
三世の中の現在なら刹那主義である。現在の自覚の中に意味として未来の往生がある。意味として包まれているのを必至という。
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阿頼耶識の自相は能蔵・所蔵・執蔵の義(意味)が有ると教えられていました。これは「有情に執せられて自の内我と為す」つまり遍計所執性であり、自相は我愛執蔵現行位なんですね。そしてこれは善不善の異熟果であり、本識の果相を異熟と押さえられているのでした。いわゆる善悪業果位です。現在の自分を押さえると業果位なんですね。業果の中に一切の諸法の種子を宿しているわけです。
そして生滅変化するのは有為法です。有為法に於いて縁起が語られるのですね。阿頼耶識の恒転もまた有為法であるわけでしょう。問題は有為有漏なのか、有為無漏なのかですね。夏休みの課題をいただきました。種子は有漏の種子なんですが、有漏の種子が無覆無記と押さえられている本識の三相をはっきりさせないといけませんね。