唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

唯識入門」第六回目講義概要 (4) 修道断滅

2013-04-25 23:31:01 | 唯識入門

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 倶生起の我執は如何にして断ずることができるのか。

 「細なるが故に断じ難し」、と。

 「此の二つの我執は、細なるが故に断じ難し。後の修道の中にして、数々勝れたる生空観を修習して、方に能く除滅す。」

 無間断・有間断にかかわらず、この二つの我執は非常に細やかに、身と倶に染みこんでいるので、断じ難い、難かしいということですね。仏教の人間像は修道的人間とおさえていますが、見道的人間とは押さえていないのです。これは、倶生起という、無始以来任運にということが解決できないならば、修業というのも、元の木阿弥になるということを示唆されているのでしょう。大乗の仏教徒はこの課題に対して果敢に挑戦してきたのでしょう。それは、見道では解決のできない問題を見出してきたということに外なりません。ここに仏教徒のご苦労を思うわけです。これが「数々」という言葉に表されています。「生空観を修習して」ということですが、生空観とは何かといいますと、生は空と観察することです。生命的存在が実体として存在しないことを観察することですね。難しくいいますと、修道位に於て数々無漏の生空観を修習して、第十地の満心金剛喩定の現前する時に初めて除滅されることが出来るのである、と説明されます。

 我執を断ずることが出来るのは、無漏智のみであるということを明らかにしているのですが、しかし有漏智は我執を伏することはできるが、断ずることはできないと見抜いてきたのですね。無漏の生空無分別智を修習する時、我執の種子が断じられ、「方に能く除滅す」と、我執の種子が断じられるといっています。

 生空観と法空観

 生空観は、主に二乗について言われます。二乗は断煩悩得涅槃の道です。我空を観ずることによって煩悩を断じようとするものですが、大乗菩薩路は、我空・法空の二空を観ずるということですので、法空を観ずる、法空観を修することにおいて、生空観は修することはできるのです。煩悩即涅槃・生死即菩提と観察することです。本来は我空・法空なのですから、断ずべき煩悩はなく、執すべき生死はないということになります。

 次に、分別起の我執です。今回は、倶生起・分別起の我執を説明して終わる予定です。明日は、分別起の我執について述べます。