唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変  受倶門・重解六位心所(49) 別境・五受分別門

2013-04-17 23:13:29 | 心の構造について

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 別境 五受分別門 護法正義を述べる(3)

ー第六意識には、欲と苦受が相応することを述べるー

 「純受苦処には解脱せんと希求す。意に苦根有りということは、前にすでに説くが故に」(『論』第五・三十四左

 「論。純受苦處至前已説故 述曰。此證苦倶。又地獄全。鬼畜少分純受苦處。如前已説意有苦受。亦希求解脱。解脱者解脱彼苦。故欲苦倶。」(『述記』第六本上・二十八右。大正43・433b)

 「述して曰く。此れは苦と倶なることを証す。また地獄の全と鬼蓄の少分とは純受苦処なり。前にすでに説けるが如し。意に苦受あり。また解脱せんことを希求す。解脱とは彼の苦を解脱するなり。故に欲は苦と倶なり」)

 地獄のすべてと、鬼蓄の少分とを純受苦処というのですが、この純受苦処に於いては、解脱(ここでいう解脱は悟りを指すのではなく、逃れる、離れるという意味)しようと望む。よって、欲は苦受と倶に働くのである。このことは既に述べた通りである。「人天の中には、恒に名づけて憂と為す。尤重に非ざるが故に。傍生と鬼界とのをば、憂とも名づけ、苦とも名づく、雑受と純受と軽重有るが故に」の文。

 「所楽の境の於に希望する」そして「勤が依」であるのが欲の心所です。欲は善・悪にも通ずるのですが、正勤即ち、正精進の依処なのですね。善への希求が欲の心所なのです。苦から逃れたいという初動のところに、善への欲求が働いているのです。その欲求は如来の欲生心として私の上に成就していたのです。その意味が第六意識に於いて、欲は苦受と相応すると説かれているわけです。

 その文とは、「諸の適悦(じゃくえつ)受の五識と相応するを恒に名づけて楽と為す。意識と相応する、若し欲界と初二静慮の近分とに在らば、喜と名づく。但心を悦しむる故に、若し初二静慮の根本に在らば、楽とも名づけ、喜とも名づく。身心を悦ばしむる故に。若し第三静慮の近分と根本とに在らば、楽とのみ名づく。安静にも尤重にも無分別にもある故に。諸の逼迫受の五識と相応するをば、恒に名づけて苦となして、意識と倶なるをば、・・・二に通ず。人・天の中には恒に名づけて憂と為す。尤重に非ざるが故に。傍生と鬼界とのをば名づけて憂とも名づけ、苦とも名づく。雑受と純受と軽重有るが故に。捺落迦の中をば唯だ名づけて苦とのみ為す。純受にして尤重なり、無分別の故に」(『論』第五二十三右~二十三左)です。

             逼迫受

 前五識相応は苦受

 第六意識相応の人・天は憂受

           鬼・畜は苦受と憂受

           地獄は苦受

 

              適悦受

 前五識相応は楽受

 第六意識相応の欲界・初静慮近分は喜受

           初二静慮根本は楽受と喜受

           第三静慮近分・根本は楽受

 非二受  ー  三界 - 捨受

 安田先生は、「欲については所楽の境において希望を起すのだから、憂や苦に起こるはずがないというが、無上法というようなもの、解脱を求めること、-それは確かに所楽の境であるが、-無上菩提を求めて仏道を歩む場合にいつもでもニコニコ笑っているわけではない。悩みが伴っている。憂慼(うせき)するといっている。憂である。希望の境に憂は起こらぬというが憂は起こる。好きで求めるということはない。仏道は闘いである。(『三十頌聴記』(安田理深選集巻三・p324)と述べられています。


第三能変  受倶門・重解六位心所(48) 別境・五受分別門

2013-04-17 00:05:41 | 心の構造について

 別境 五受分別門 (2) 護法の正義を述べる

 「有義は、一切の五受と相応す、論に、憂根は無上の法の於に思慕し愁慼(しゅうしゃく)して、求めて証せんと欲すと説けるが故に」(『論』第五・三十四左)

 「論。有義一切至求欲證故 述曰。第二師説。一切五受皆五相應。何以憂根與欲倶也。瑜伽五十七。對法第十説憂根於無上法思慕。欲證愁慼所攝。即善法欲與憂倶也。證憂餘時亦得倶也。」(『述記』第六本上・二十七左。大正43・433b) 

 (「述して曰く。第二師の説。一切の五受と皆五は相応す。何を以て憂根は欲と倶なるや。瑜伽五十七。対法の第十に説く。憂根は無上の法に於いて、思慕して証せんと欲し、愁慼するに摂む所と云えり。即ち善法欲と憂と倶と云うなり。憂は余の時にも亦倶なることを得と証するなり。)

 愁慼(しゅうしゃく) - うれいかなしむこと。

 護法の正義が述べられます。第六意識に於いては、一切の五受は別境の心所である、五つの欲・勝解・念・定・慧と相応するのである。論『瑜伽論』巻五十七・『対法論』巻十に、「憂根は、無上の法に対して、思慕し、愁慼して、求めて、証明しようと欲する、と説かれているからである。

 前の第一師の説は、欲は三受(楽受・喜受・捨受)と相応し、憂受や苦受とは相応しないということに対して、論書を以て論破し、証明しているのです。欲は善法欲といわれ、欲無減であるとも云われていました。ですから、五別境中の欲と、五受中の憂根とが倶に働いているという事が論に依って証明されている、というのです。また欲は可欣の境・可厭の境・中容の境のいずれをも対象とすることが欲の心所の所で述べられていました。

 参考文献 『瑜伽論』巻五十七(大正30・618c)

 「憂云何。謂於無上心生思慕。此中預流一來於一切種皆圓滿。故建立憂根。若不還果雖有初二餘二無故。不立憂根。唯善法欲」の文。

(憂とは云何。謂く無上に於て心に思慕を生ずるなり。此の中預流(よる)・一来(いちらい)は一切種に於て皆な円満するが故に憂根を建立し、若しくは不還果(ふげんか)には初めの二(希求・けぐ)ありと雖も、余の二(憂慼・うせき)無きが故に憂根を立てず、唯だ善法欲のみなり)

 希求(けぐ) - ねがう・もとめる・欲する。「諸の衆生を悲愍するが故に大菩提を希求す」

 憂慼(うせき) - 憂い