唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 心所相応門 (14) 心所について

2012-11-22 22:32:49 | 心の構造について

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 遍行とは、遍く行きわたっているという意味ですから、いついかなる時にも偏在している、触・作意・受・想・思の五つは、八識すべての心王とともに働くと云われています。即ち、実法(種子より生じる心所ー実法か仮法かを問うこと、仮実分別)であり、三性(三性分別)に通じ、三界(界繋分別)に存在し、三量(三量分別)に通じ、八識(相応の識)すべてに偏在していることなのですね。
 別境の心所は、欲・勝解・念・定・慧の五つをいいますが、別別の境に対して生起するので別境という。

 善と煩悩の名の由来について

 「唯善にして心の中に生ずることを得可きが故に、性是れ根本にして煩悩に摂めらるるが故に」(『論』第五・二十一右)

「論。唯善心中至煩攝故 述曰。十一善法唯善心有。體性根本能生諸惑。即貪等六。」(『述記』第五末・七十七右。大正43・422c)

 「述して曰く、十一の善法は唯、善心のみ有り。体性根本にして能く諸惑を生ず、即ち貪等の六なり」) 
 

 十一の善の心所(信・慚・愧・無貪・無瞋・無癡・勤・軽安・不放逸・行捨・不害)はただ善であり、必ず善としてのみ心の中に生じるもの。根本煩悩の六つの心所は性が根本であり、諸々の諸惑を生みだす。煩悩に摂められるから、煩悩の心所という。

 善の心所は、前六識と相応して働き、第七識と第八識とは相応しない。

  • 仮実分別 - 不放逸・行捨・不害は仮法、それ以外の七は実法。
  • 三性分別 - 善
  • 界繋分別 - 軽安は色界と無色界。それ以外の十は三界すべて。
  • 三量 - 現量と比量
  • 相応の識 ー 前六識 

 不放逸・行捨・不害は仮法という意味は、不放逸・行捨は勤と無貪と無瞋と無癡の四つの心所の分位仮立であり、不害は無瞋の分位仮立であるので、仮法である。

 善の心所は唯善である。三界では、軽安は定の時のみに働くので欲界には存在しないということになります。それ以外は三界にわたって存在します。善の十一の心所は、(三量では)現量と比量であり、非量はない。

 善の四義(四種善) 

  • 自性善(じしょうぜん) - それ自身、善であるもの。慚と愧との根をいう。善の十一の心所は自性善である。
  • 相応善(そうおうぜん) - 慚と愧と無貪とに結びついている心・心所をいう。
  • 等起善(とうきぜん) - 善の心作用にもとづいて起こる身体的動作と言語表現で、自性善・相応善と等しく生起する身・語の表業・無表業および不相応行法をいう。
  • 勝義善(しょうぎぜん) - 解脱のこと。すべての煩悩が断ぜられて安楽な境地であるから善と名づけられる。

 煩悩の心所は随煩悩に対して根本のものであり、諸惑を生みだす根本でもある。

  • 仮実分別 - 悪見のみ仮法であり、その他の五は実法
  • 三性分別 - 瞋のみ不善であり、その他の五は不善・有覆
  • 界繋分別 - 瞋のみ欲界の存在し、他は三界すべてに存在する
  • 三量では - 貪・瞋・癡は三量すべて、慢は比量・非量、疑・悪見は非量
  • 相応の識 - 貪は前七識・瞋は前六識・癡は前七識・慢は第六・七識、疑は第六識、悪見は第六・七識