唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 心所相応門 (7) 心所について

2012-11-13 23:14:04 | 心の構造について

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 「触は能く此れと可意等との相を了す。受は能く此れと摂受等との相を了す。」(『論』第五・二十右)

 (触は、よくこれ(総相)と可意(かい)等との相(別相)を了別する。受は、よくこれと摂受等の別相を了別するのである。)

  •  触の心所は、よく総相と心にかなう(可意)と、心にかなわない(不可意)と、そのいずれでもない(倶相違)という三の相を別相として認識判断する。可意・不可意・倶相違の記述は『喩伽論』による。
  •  受の心所は、よく総相と摂受(楽受)と損害(苦受)と倶相違(捨受)という三の相を別相として認識判断する。三受についてー三種の感受のこと。快感(楽受)・不快感(苦受)・そのどちらでもないもの(不苦不楽)のこと。摂受・損害・倶相違の記述は『喩伽論』による。

 「想は能く此れと言説因との相を了す、思は能く此れと正因等との相を了す、故に作意等を心所法と名づくといえり。」(『論』第五・二十右)

 (想は、よく総相と言説因(別相)との相を了別する。思は、よく総相と正因(別相)の相を了別する。その故に、作意等を心所法と名づく、という。)

  •  想の心所は、よく総相と言説因(了因ともいう。認識を成り立たせる根拠、理由という。)との相を了する。想の別相は言説の因、想を引き起こす心のはたらきで、言説を引き起こす因となる。 「想」は感受したものを表象すること。「殊に物の形を知り、弁えて其の品々の名を説く心」といわれています。
  •  思の心所は、よく総相と認識対象上の正因(善)・邪因(悪)・倶相違(無記)の相を了する。思は判断する心の働き。善悪等を引き起こす因となる心の働きを意味し、この三つの因が思の起こる因であり業の因となることから思の別相といわれます。

 「言説因の相というのは、前の第三巻の八識の中に説いてある。境の分斉の相を取るが故に。謂く此れは是れ青なり。青に非ざるには非ざる等便ち言説を起こす。故に想の別相は言説の因なり。思は正因等を了すというのは、謂く正因と邪因と倶相違との等、即ち是れ境の上の正・邪等の相なり。業が因なり。此れが中の一々は作意の如く亦、別相を取ると説くべし」(『述記』第五末・七十四左)

 作意・触・受・想・思の各心所は、認識対象の総相と別相を認識するのであると、説いています。

 問い、「何を以ってか、心所は亦、総相を取るということを知るや。

 「此れというは、心所は亦総相をも縁ずということを表す。」(『論』第五・二十左)

 (「これ」というのは、心所は、また総相をも縁じるということを表すのである。)

 『瑜伽』に此の言を説くことは、心所法は亦、総相を縁ずということを表すが故なり。謂く彼の論に言く、又識は能く事の総相を了す。即ち此れと(総相)、未だ了別せざる(別相)所の所了の境の相とを能く了別する者を説いて作意と名づくといへり。・・・此の識の所取の総相を了し、亦、未だ了別せざる所の別相をも取るが故に。彼の論の此れという言は総を取ることを顕すが故なり。」(『述記』第五末・七十五右))

 「此れ」とは総相を指します。心所は別相のみならず、総相をも認識するということが示されているのです。

  「論。觸能了此至攝受等相 述曰。觸能取三。謂可意・不可意・倶相違相。受中攝受等者。等損害・倶相違。此二取相近相順也 
 論。想能了此至名心所法 述曰。言説因相者。謂如前第三卷八識中説。取境分齊相故。謂此是青。非非青等。便起言説。故想之相言説因也 思了正因等者。謂正因・邪因・倶相違等。即是境上正邪等相。業之因也。此中一一如作意説亦取別相 
 何以知心所亦取總相。
 論。此表心所亦縁總相 述曰。瑜伽説此言。表心所法亦縁總相故。謂彼論言。又識能了事之總相。即此所未了別所了境相能了別者説名作意。意説作意了此總相及識所未了別相。謂境別相。此境上別相作意亦能了。即是了此識所取總相。亦取所未了別別相故。彼論此言顯取總故。此五遍行如大論説。然楞伽經中。亦言心縁總相等。顯揚十八有頌説此五・及心王取總・別相。」(『述記』第五末・七十四左。大正43・422a~b)