唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 受倶門 例徴 ・ 総結 ・ 会通その(1)

2010-07-18 14:28:36 | 受倶門

P1000183 今日は横堤八幡宮の夏祭りで、街中をだんじりが練り歩いています。もともと八幡さんの祭りは五穀豊穣を天地の神々に祈りをささげる厳粛な儀式ですが、地車保存委員会の方々の努力によって毎年夏と秋の祭礼の折、子どもたちの楽しみの一つとしてその風習が今日まで伝えられています。仏教伝来は仏教本来の姿を変えて中国から朝鮮半島を経て我が国に伝えられたのですが、それは朝廷の貢物として、国家安泰・五穀豊穣を祈願する手立てとしての性格をもっていました。神社と仏教が融合した形で祭式を執り行っていたのですね。古代国家にとっては祭式は国の根幹をなす重要な位置を占めていました。それは天地の神々に祈りを奉げる事において国家が安泰し、民が安んじることに通じたからです。国が安泰し、国が豊かになることが国民の幸せにつながると考えられていました。この考えは今の時代にも通じているのかもしれません。「国豊かにして、民安んずる」といいますからね。仏教が時の為政者に性格を異にしながら利用されていた時代が長く続きましたが、仏教本来の「生きとし生きるものをすべて救いたい」という願心が鎌倉時代の祖師達によって民衆の手に取り戻されました。そして日本の土壌で育てられた仏教が今日まで私たちの精神生活に大きな影響を与えているのです。

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 第三能変 受倶門 例を挙げて徴す。

 「極楽地の意の悦するを楽とのみ名づけて、喜根有ること無きが如し、故に極苦処にも意の迫を苦と名づけて、憂根有ること無かるべし」(『論』)

 (意訳) 色界第三静慮の極楽地において、第六意識の(適)悦するのを楽とのみ名づけて、喜根がないのと同じである。それだから、極苦処(地獄)にも、第六意識の(逼)迫を苦と名づけて、憂根がないのと同じである。このことによって第八番目に憂根が有るという説は、論拠のないことがわかるのである。

  • 第三静慮(色界第三禅・第三定)は前に述べましたが、前六識の悦が遍ねく行き渡って極まりが無いといわれるのですが、喜受はなく楽のみであるのです。「若し第三静慮の近分と根本とに在るをば楽とのみ名づく」と。(これと同様に地獄に於いても苦受のみであって、憂受はないことがしられる。護法の説明は、第六意識相応といえども、苦受の場合があるというのですね。これは六趣で説明されます。人天の場合と餓鬼・畜生と地獄に分けて論じられます。人天の場合は第六識はただ憂受とのみ相応するけれども、餓鬼・畜生の場合は軽重の差があるので、憂とも苦とも名づけるという。そして地獄は純苦・尤重・無分別處であるので、第六識相応といえども苦受という。)

 「意の悦するを楽とのみ名づけて、喜根有ること無し、というは、即ち第三定なり。応に極苦の處にも意の迫るを苦と名づけて憂根有ること無かるべし、故に憂は有るに非ず」(『述記』)

 総結(「四に総じて彼の三の法は種は成じて現はぜずということを結す」)

 「故に余の三という言は、定んで憂と喜と楽となり」(『論』)

 (意訳) 総じて結ぶ文です。『瑜伽論』巻五十七に「地獄には諸の根において、余の三は現行定んで成就せず。」余の三は楽受・喜受・憂受を指す、ということが結論になります。

 この結論から、又問いが出されます。(会違ー違いを会通する。違いを会すに三有り。初めは『摂論』を会す。)

 地獄にはただ苦のみ有りというのであれば、世親菩薩の『摂大乗論』巻第二(大正31・327b)に「純苦処に等流の楽有り」と説かれるのであろうか。それに対して、この文は説一切有部の立場に立って説かれたもの(随転理門)である、といい、大乗の立場に立って会通します。

 「余の処に、彼に等流の楽有りと説けるは、応に知るべし。彼は随転理に依って説けり。或いは彼に通じて余の雑受処を説けり、異熟の楽無きをもって、純苦とは名づくるが故に」(『論』)

 (意訳)「余の処」、即ち『摂大乗論』に「彼」(地獄)には、等流の楽受があると説かれているのは、地獄は説一切有部の立場から、随転理門に依って説かれているのである。「有る経の中に六識と説けるは、・・・是れ随転理門なり」と。初期仏教では六識に随って説明され、第七識・第八識は説かれていないのですね。(随転理門は根器に随転して説く方法です。それに対して根器に合わさず、真実を直接に説く方法を真実理門という。)大乗の立場から、『摂大乗論』のこの文は、地獄に通じて、餓鬼・畜生という雑受処を説いているのである。雑受処に等流の楽受があるということを合わせて説いているのであり、純苦処である地獄に等流の楽受が有るということを説いているわけではない。地獄には異熟の楽受は存在しないから、純苦処と名づけられるのである。

 『述記』の記述をみてみますと「若し大乗に依って彼の文(『摂論』)を解して云く、或いは彼は通じて余の二趣(餓鬼・畜生)の雑受処に等流の楽有りということを説く。極苦の地苦の地獄の中に等流の楽有るにも非ず。彼しこは(餓鬼・畜生の雑受処)異熟の楽無きをもって純苦処と名づくるが故に。又彼しこには異熟は無けれども等流の楽有り。此れ(純苦の地獄)をば純苦と名づくるをもって一切皆無し」。

 その二は『対法論』(大乗阿毘達磨雑集論』巻第七・大正31・726a)を会通す。

 「然も諸の聖教に、意地の慼受(しゃくじゅ)を憂根と名けたるは、多分に依って説けり、或いは随転門なり、相違の過無し」(『論』)

 (意訳) 「意識と倶なるは、有義は唯憂という、心を逼迫するが故に、意地の慼受をば憂根と名くと説けるが故に」(安慧の説で第六意識はただ分別する識であるので、これと相応する逼迫受は、憂受にみで、苦受はないという立場ー逼迫受の項参照してください)これは多分によって説かれたものであり、又は随転門で説かれたものであって、『論』の所説と相違する過失はない。多分は天界・人間界のすべて、餓鬼界・畜生界の一部を指す。

 ここも、二つの立場に立っての会通になります。初めは大乗の立場から、後は説一切有部の立場から『論』の内容と矛盾したり、相違がないことを会通します。

 『対法論』第七等に瞋恚は意識に於いて憂受と相応す等と説かれていて、意の慼(うれい)を憂と名づくのは多分によって説かれているのである。即ち人・天界のすべてと、鬼・畜界の一部である。少分である地獄の慼の受を苦受とするのは説かれていないという。或いは説一切有部の立場からは、意識における瞋恚は憂受と倶であると説かれるので、説一切有部の立場である随転理門に随うのであって、『対法論』の内容は『論』の記述と相違するものではない。

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