唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 受倶門 引証(『瑜伽論』巻第六十六) 。 釈尊伝(52)

2010-07-03 23:45:15 | 受倶門
釈尊伝 (52)      - 天とは -
 
  天というのは、つまりもうこれ以上考えられないのが、一般世間の考えであります。非、法、権、天という語辞を旗印にしていたのが楠正成であるという伝説があります。例えに申しあげたのですが、そうすると権力というものは、天の次に強いということです。天は日々とともにあり、権力者も寿命があるわけで、時代が変わるということに対しては権力といえどもどうにもできないわけです。一番権力をにぎっているのは王であります。日本の国なら、総理大臣が王という立場になります。
       
                - 不安の正体 -
 それから、
 「自分の生命をおびやかす幽鬼の姿が太子をおそった。そればかりか、天地自然がみな生命をうばうためにくずれかかる恐怖ともなった」
 ここに幽鬼とわざわざあらわしたのは、幽とはかすかなという意味で、幽れいの幽。われわれが不安を感ずること。自分は殺されはしないかという不安。これはいつもつきまといます。一人夜道を歩くときの不安、そういう不安というものをおこせば、どれだけ否定しても、自分の心におこった不安はうち消せないです。そういうものがわれわれをおそれさすわけであります。
 それから天地自然。このめぐみでわれわれは生きているといえますが、また一面生命をうばうものとなります。台風がくる。大雨が降る。今まで大事に守ってくれていたものがいっぺんに崩れかかって、生命をとってしまうということです。心配すれば周囲全部のものが自分の生命をうばうものという心配が、これまたまぬがれないです。 (つづく) 『釈尊伝』 蓬茨祖運述より
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 第三能変 受倶門 安慧の主張、その証拠を示す
 「瑜伽論に説かく、地獄の中に生まれたる諸の有情類は、異生の無間に異熟の無間に異熟生の苦憂相続すること有りといえり」(『論』)
 (意訳) 『瑜伽論』巻第六十六に「此の受は一切処に於いて異熟の所摂なりと。余の苦楽受は応に知るべし、皆な是れ異熟の所生にして其の種子の如きは異熟の所摂なりと。即ち此の因、此の縁に随って因縁と為るが故に異熟生より那落迦(地獄)の諸の有情類を生じ、異熟の無間に異熟生あり、苦憂相続して那落迦に生ず。・・・」と語られてあります。「異熟の無間」というのは、初めに生じる心であり、阿頼耶識を指します。「異熟生」は前六識を指し、「異熟生の苦憂相続すること」というのは、六識中、前五識は苦が相続し、第六意識は憂が相続するということになります。このようなことから、地獄の逼
迫受を受ける第六意識には憂受のみあって、苦受はないという証拠であるといっています。
 「異熟の無間というは、初生の心なり。是第八識なり。苦・憂相続というは、第八異熟心に次いで後に生ずるをもって、地獄中の意は唯苦のみあらば何が憂と言うや。此の師の意の説かく、(『瑜伽論』)五十七に地獄に八根を成ずることを言うは、定んで六識に約して論を作すという。客の受に依って説けり。五十一等に六識の中に受をば名づけて客受とすと説けり。謂はく五色根と意と命と或いは憂とは定んで成就するが故に。余は皆間断す。或いは復五識の苦を取る。・・・」(『述記』)
  
 「又説かく、地獄の尋伺(じんし)は憂と倶なり、一分の鬼趣と傍生とも又爾なりという」(『論』)
 「是の如く若くは一分の餓鬼及び傍生の中に生ずるもまさに知るべし亦爾なりと」(『瑜伽論』巻六十六)
 
 (意訳) 地獄の中の尋伺は、憂と倶である。尋伺はただ第六意識と相応するので、地獄の中の第六意識には、憂受のみあって、苦受はない証拠である。餓鬼と畜生もまた同様である。鬼趣は餓鬼のこと。傍生は畜生のことです。「一分の」というのは純苦処であることを意味します。