公立小中学校の1学級の上限人数を、現在の40人から引き下げる必要がある。中央教育審議会の分科会がそんな提言案をまとめた。文部科学省は「35人」を軸に検討している。
これまでは、上限を1人でも上回ると二つのクラスに分けてきたが、中教審はこうした画一的な仕組みの見直しも求めた。35人学級で36人になっても、18人の2クラスにせず、36人のまま教員を2人配置することもできるという。
学級編制の標準見直しは、45人から40人に引き下げた1980年度以来、ほぼ30年ぶりとなる。
主要教科を中心に、授業時間や学習内容が大幅に増える新学習指導要領の全面実施が迫っている。学力低下、いじめや不登校など教育現場が抱える課題も多い。
中教審が指摘したように、学級規模を小さくし、教員の目が行き届くようにすることは必要だ。
心配なのは財源の問題である。35人学級を実現する場合、教員は4万人以上増え、国と地方合わせて年約3000億円が新たに必要になるという試算もある。
中教審が「恒久的な財源確保に理解を得られるよう努めるべきだ」と言及したのも、厳しい財政事情の折、当然のことだ。
公立小中学校の1学級の上限人数を35人程度まで引き下げるプランがあるそうです。教育の質を向上させる上では欠かせないことと言えますが、しかるに引用元である読売新聞が真っ先に気にかけるのは「財源」でした。さんざん学力低下だの何だのと煽っておきながら、教育のための予算には目くじらを立てる、まるでダメな球団のオーナーみたいでもありますね。金は出さずに口だけ出す、予算を削っておきながら現場の努力で結果を出せと要求する、こういう手合いが上にいるとクラブは強くなれないものですが、その辺は教育も同様でしょう。幸いにして読売新聞が教育予算の決定権を握っているわけではありませんけれど、ただ現与党の事業仕分け的な体質を見ていると、あまり希望は持たない方が良さそうです。
教育は将来への投資なのですから、ここで予算を惜しむことは将来の損失にも繋がるように思われますが、読売新聞だけではなく世論の少なからぬ部分は、教育という投資よりも歳出削減に重きを置いているような気もします。往々にして国民は自分たちの生活よりも国家(政府)の財政の方を気にするものですし(だから国民の生活を気にする政党よりも、歳出削減を訴える政党の方が支持されたり)、何しろ自己責任論の国ですから、良い教育を受けたければ個人的に学費を負担して良い学校に行くべき、玉石混淆の生徒が通う公教育のために今以上の予算を投じるべきではない、そう考える人も多そうです。
以前にも書いたことですが、少子化が進めば当然のことながら、子どもに投下される教育のリソースは先行世代よりも集中するものです。10人の子ども全員を塾に通わせて大学に進ませるようなマネは中産階級には不可能なことですが、子どもが一人か二人ぐらいなら、中の下くらいの家庭でも塾や大学に入れてやることは難しくないでしょう。公教育にしたところで団塊世代なら1クラスに50人ほど詰め込まれたかも知れませんが、今なら1クラス35人ほどで相対的には目配りの聞いた教育が受けられるわけです。そうなると必然的に高等教育を受ける人間の割合も増加していくのですが、これが日本の社会にマッチしているかというと、大いに問題があったりします。
大卒者の割合は上昇を続けていく一方で、そうした高等教育修了者向けの就職先が合わせて増加しているかと言えば、甚だしく悪化する大学生の就職事情を見るまでもない、受けた教育に見合った職は完全に不足しているわけです。本来なら教育は将来への投資でもあり、しっかりと教育を与えれば将来的には倍になって返ってこなければなりません。しかるに現状では、教育への投資が無駄になってしまうケースが多いのではないでしょうか。いくら子どもの教育にお金をかけても、マトモな仕事に就けるとは限らない=教育への見返りが得られない、と。そうなると教育への予算をムダと見なす風潮が強まるのも無理からぬところです。
あくまで製造業を軸とした産業構造を維持しつつ、コストカット(人件費削減)によって利益を確保する、より人件費削減が容易になるように規制緩和を進める、そうした日本的なビジネスモデルの元では、教育はむしろ障害になります。産業界が求めているのは低賃金労働者であり単純労働者であるなら、子どもには高等教育を施すよりも、早く「社会」に出て労働力になってもらった方が良い、高等教育を受けるのは一部のエリートだけで十分だ、ということにもなるのでしょう。この国で教育の必要性が理解されるには社会全体が変わらないといけない、教育から就職、経済までも含めた幅広い面で国民の考え方が変わらないとダメなのかも知れません。
まあ「ダメ球団のオーナー」ほど短期的成果を求めたがるものなのかもしれないですけど。
>心配なのは財源の問題である。35人学級を実現する場合、教員は4万人以上増え、国と地方合わせて年約3000億円が新たに必要になるという試算もある。
中教審が「恒久的な財源確保に理解を得られるよう努めるべきだ」と言及したのも、厳しい財政事情の折、当然のことだ。
というのはねえ、毎度おなじみとはいえ、うんざりさせられます。
>高等教育を受けるのは一部のエリートだけで十分だ、ということにもなるのでしょう。この国で教育の必要性が理解されるには社会全体が変わらないといけない、教育から就職、経済までも含めた幅広い面で国民の考え方が変わらないとダメなのかも知れません。
同感です。国民の考えが変わるまでは道通しだと思います。
すぐ頭に浮かんだのはフィリピンでした。
一割の富裕層と貧困層の単純構造。
当時は、「冗談じゃねえぞ!」と憤ったもんですが、着実に近づきつつあります。
それも国民の圧倒的支持のもと。
フィリピンでは、一流大学を出ても殆ど日給1000円以下。てっとり早くお金を稼ぐのは女性なら売春。ならば、大学にやる必要もないって事になるでしょう。社会の公共資本より、互いの見栄の張り合い。他の子供がいい教育を受けるのは気に入らない。
今にして、石原の先を見通す力を見直す、、、、訳ないだろ!
興奮しちゃいました。すいません。
関係ない話しついでに、元ミスフィリピンだったらしいタレントさんを思い出します。
この人は、純粋なスペイン系でとても綺麗で頭のよい女性でした。
一ヶ月の契約は最高レベルでも2000ドル程度。しかし、いいお客さんを掴み毎日キックバックを稼いで、数十万からあるいは100万を超える稼ぎを持って帰った様です。それも、とても綺麗な仕事っぷりで。
おそらく富裕階級のスペイン系でも彼女の父の代で没落してしまい、彼女自身の力で階級に返り咲こうとしていたのだと思います。
こんな決心は私などには想像もつかないくらい固いものだったでしょう。
それほど階級とは思いものですが、今の日本人はそれを求めてさえいる気がします。
医者に診てもらいたくても、お金がなければ診て貰えない社会。
国家財政が赤字にならないのならそんな社会でもいいんですね。
もう一度、マッカーサー様にでもお言葉を頂かなければ分かんない国民ですね。
今日の午前中、水分の取り方が足りなくて熱中症になりかけました。
妄言ご容赦下さい。
ある意味、目に見える成果しか評価したがらないところもありますしね。芽が出るかどうか不確かなものには投資しない、ムダと見なす、事業仕分けする、そんな風潮ですから。
>Bill McCrearyさん
少子化なのに1学級の人数が減らないとしたら、それまたおかしな話ですよね。1学級当たりの人数を減らすより、教育予算を減らしたいという論調の方が強いのでしょうか。
>最下層公務員さん
今日も死にそうになるほど熱いですね。それはさておき、石原だけでなく彼を現在の地位に押し上げるのに一役買った人々も含めて、かなり低いところに「普通」を設定している気がします。ちょっと教育や福祉に力を入れようものなら、甘やかしや特権云々と言われる有様ですし。
社説を書いた人間は、「あんた一人でここまで来たのかよ」と突っ込まずにはいられません。教育環境が不十分だったり、勉強をする意味を教えられさえしなければ今の立場にいられないのはいられないはずですから。
教育になると著名人批判をしたくなることがあります。(佐高信氏のように鋭さはありませんが)
>早く「社会」に出て労働力になってもらった方が良い、高等教育を受けるのは一部のエリートだけで十分だ、ということにもなるのでしょう。
ご存じの方は多いと思いますが、三浦朱門も同様の思想にあります。
義務教育を終了しただけじゃ社会は認めない側面を無視して言っている側面を感じる故に許すわけにはと思います。
陰山英男は、一人の教育者であれば救いはありましたが、橋下のブレーンになったことで人間性に疑問を持つようになりました。
「本当の学力」を問い続ける人々を嘲笑うかのごとき発言を耳にしましたが「学力は、学校教育から外れたら用済みかよ」と呆れてしまいました。
教育しなければ、もっと悪いことになっていたんじゃないですかね。
>不肖の弟子さん
社説を担当するような人に限らず「功成り遂げた人」は、往々にして自分一人の努力で成功したと勘違いしているものなのでしょう。自分の力でここまで来た、偉い人の中にそういう勘違いがあるからこそ今の教育があるのだと思います。
お題目だけご立派でも実態はスッカスカなのが、日本の高等教育の実情なんでしょうね。
つい先日も、司法修習生の43%が就職が決まらないというニュースを見ました。せっかく勉強しても、それを活かせる場所がないようですね。安価な労働力に依存するのではなく、教育水準の高さを活かせるような社会にならなければならないと常々思うのですが……