死刑:判決、最多の47人 確定者107人 厳罰化進む(毎日新聞)
全国の裁判所で今年死刑を言い渡された被告が47人に上り、最高裁にデータがある80年以降最多だったことが毎日新聞の調べで分かった。拘置所に収容されている死刑確定者も107人に上り、年末としては戦後最多となった。被害者感情を重視し、厳罰化傾向が進んでいることが背景にあるとみられる。
凶悪犯罪は減っても死刑は増えるわけで、過去最多を記録したとか。引用記事冒頭部では被害者感情云々と書いてありますが、これは被害者感情だけではないでしょうね。被害者感情にただ乗りした死刑愛好家に阿る判決が増えたと、それくらい書いてもよいでしょう。
◇社会で残忍な事件、減らす努力を--渥美東洋・京都産業大法科大学院教授(刑事法)の話
メディアの犯罪報道などによって社会に厳罰主義の流れが進み、司法判断も影響を受けていることが、死刑判決増加の背景にある。刑法犯の認知件数は減ってきているのに、全く落ち度がない子供が被害者になるような残忍な犯罪が増えていることも理由の一つだ。幼少期のうちから、集団の構成員となるために必要な価値や規範を身に着けられるような福祉的活動や行政サービスを充実させ、死刑に相当する残忍な事件を減らしていく社会全体の努力が必要になっている。
こちらにもいくつか、ツッコミを入れたいところがあります。一つは「全く落ち度がない子供が被害者になるような残忍な犯罪が増えている」という行で、これはおそらく、何ら数値的な裏付けのない印象論ではないでしょうか? 刑法犯の認知件数は減ってきているにも関わらず「全く落ち度がない~」が増えていると考えるその根拠はあるのでしょうか? 「全く落ち度がない~」の増加がその先の議論の前提とされ、本来は論議されるはずのものがあたかも自明のことのように扱われていますが、これでは印象操作の類かと。
そもそも、実際の事件以前にメディアの犯罪報道が増えたかどうかにも疑問の余地はあります。センセーショナルな犯罪が起こると(それがセンセーショナル足りうるのは報道あってこそなのですが)、途端に殺せ殺せの大合唱と犯罪の増加が語られますが、それはあくまで一過性の流行であって、常に忘れ去られるものです。過去に起こった諸々の残忍な犯行とそれを煽り立てたムーブメントを忘れ去ったまま現在の犯罪とその報道に触れて、その現在に犯罪もしくは犯罪報道の増加を見ている可能性はないでしょうか? 有史以来「昔は良かった」と言い続けてきた人類が犯罪及び犯罪報道に関して同じことを繰り返していたとしても不思議ではありません。
また「全く落ち度がない子供」というと、いかにも据わりの良い表現なのかも知れません。しかし「落ち度がない」かどうか、一体何を基準に決められるのでしょうか? 「全く落ち度がない~」と語られますが、では「落ち度のある」ケースもあるというのでしょうか? そして被害者に落ち度があれば許されるとでも?
多くの場合、この「落ち度」は被害者と加害者の力関係、社会的地位の上下によって決められてきました。つまり被害者が普通の会社員で加害者が非正規雇用の貧困層だったとき、被害者には「全く落ち度がない」とされ、加害者の死が欲せられます。逆に加害者が米兵であったりする場合など、今度は被害者に落ち度があると見なされ、加害者が免罪されることもあります。しかし、被害者に落ち度があったかどうかなど、何の関係があるというのでしょうか?
日本人を殺すことと外国人を殺すこと、「社会人」を殺すことと「ニート」を殺すこと、未来のない若者を殺すことと子供を殺すこと、あるいは老人を殺すこと、ホームレスを殺すことと企業経営者を殺すこと、男性を殺すことと女性を殺すこと、そこに差はあるのか、「落ち度」なる曖昧な基準で罪の軽重を問う発想はそれ自体が危険です。
「死刑に相当する残忍な事件を減らしていく社会全体の努力が必要」と、渥美東洋氏は語りますが、「死刑に相当する残忍な」という完全に主観的な基準を持ちだしている辺り、氏が現実に対して有効な対策を持ち得ないであろうことを明らかにしています。凶悪犯罪に分類される刑事事件の数は減少傾向にあるのに、どうしてこういうことが言えるのか、減少する凶悪犯罪を前にしてなお「死刑に相当する残忍な事件」が増えたと感じるとしたら、そこには何が働いているのでしょう。
対処すべきなのは、減少傾向にある何かではなく、増加している、今後も増加するであろうものに対してです。そして増加しているのは犯罪ではなく、刑罰の方です。本当に深刻な問題なのは減りつつある凶悪犯罪ではなく、人を罰することを欲して止まない正義の名を借りた憎悪なのです。そこで真に教育されるべきなのは、犯罪を犯すことを想定された人々ではなく、それを罰しようとする我々であり、必要なのは市民としての成熟、自分とは別世界にいる「悪い奴」を矯正することではないのです。
誰も彼もが平等に『無価値』で、それが『報道されない』社会、というものなら、今までもたくさんありましたし、これからもたくさんあることでしょう。
が、逆に誰も彼もが『平等に価値がある』ものとして遇され、どんな事件も『そっとして』おいてくれる社会・・・そんなものが実在し得るのでしょうか?
自分に余裕があるときだけ、多少は他人の価値も認める、この程度が『ヒト』にできる精一杯のことではないかと思うのです。
> 幼少期のうちから、集団の構成員となるために必要な価値や規範を
「構成員」でなければ殺しても構わない、とか言い出さなければ良いのですが。
あらゆる「集団」以前に厳然として存在する「個」を見つめること。
それができないから犯罪も減らず、安直なヒロイズムも横行するのでは。
KYさんらしい、典型的なシャドーボクシングですね。3行目と4行目の主張が正反対の方向を指しているのでどっちがKYさんの主張したいことなのか判断に迷いますが、とりあえず自分に余裕がないにも関わらず、接客的に他人の価値を貶める人は救いようがないと思いますよ。
>ポールさん
現実問題として「社会人」でない人の扱いはそうですよね。「ニート」に生きる資格はないとか言い出した人はいるわけで、要するに既成の権威が定めた枠に収まっているかどうかで選別されてしまうところはあると思います。こういう人はきっと、子供が殺されるた時は憤ってみせるけれども、私のような中年に足を踏み入れた非正規雇用のダメリーマンが殺されても淡々としているのではないかと……
>刑法犯の認知件数は減ってきているのに、全く落ち度がない子供が被害者になるような残忍な犯罪が増えていることも理由の一つだ。
は不用意だと思います。世間にあらぬ誤解が広まるのでは。統計を出してくれないと。
で、渥美氏も指摘しているとおり、明らかにマスコミが「悲劇ショー」「復讐ショー」を遺族等にあおる傾向があります。先日テレビで、例の名古屋での女性通り魔的強盗殺人で、加害者の手記と記者との面会の内容を放送して、遺族の母親がそれを聞いて悲嘆の涙にくれるというのをやっていました。また、福岡での酒酔い追突事故でも、親が「軽い罪はゆるせない」見たいな記者会見をやっていましたし。
特に前者は、遺族をさらし者にしているようにしか、私には見えませんでした。で、遺族が「犯人を死刑に」と叫び、それをマスコミが報道する・・・。
死刑判決もさることながら無期懲役刑が事実上の終身刑化し、また乱発される傾向にあります。
従来、無期懲役だった犯罪が死刑に、有期刑だった犯罪が無期懲役に、有期刑も異常なほど延びる傾向にあります。
個人の犯罪に関しては異常とも思えるほど厳罰化に向かっています。
権力の側からすれば、国民に国家権力の権威を威嚇すのに利用できますから好都合かも知れません。
いつの間にやら日本の司法は、江戸時代にカムバックしているようで懸念を感じます。
あえて、ワイドショー化ではなく、ポルノ化と言ってみましたが、ニュースで特定の殺人事件をデフォルメしたような描き方で取り上げるようになりましたよね。局部的に劣情を刺激する部分だけをつないで、単純でわかりやすいストーリーにのせて見せてしまうような。
夕方のニュースが5時から始まるようになって、時間が増えたので、それを埋めるためというのもあるのでしょうか。あの悪影響は大きいのではないかと思います。
見る側の変化というのもあるのかもしれません。以前から殺人事件は猟奇ネタの一種として週刊誌などで扇情的に取り上げられ消費されてきましたが、むかしは読む側が、もっと他人事として受け取っていたと思うのです。被害者や遺族にはそれは同情もするんだけれども、自分はあくまで第三者だから。
最近は、被害者や遺族の悲しみに直情的に同調してしまう傾向が出てきているような気がする。同調、というより、便乗して情動を発散させているようなところがあると思う。
昨今の報道ですが、考えようによっては遺族が死刑を求めている以上に死刑が遺族を求めているのかも知れませんね。つまり、人を死刑にするために遺族を担ぎ出すと言いましょうか、死刑を正当化するために被害者感情が利用されているように感じます。これは当然、被害者遺族にとっても好ましくないはずですが……
>怪人20面相さん
刑罰によって人を押さえ込もうとするのは過去の発想と思いきや、それが再び表に出てきた感じですね。刑罰によって人を支配しようとするのは権力の側の考えることのはずですが、それが国民の間に広まっている、憂慮すべきことです。
>nesskoさん
なるほど、「ワイドショー化」程度の表現ではもはや生ぬるい気もしますね。間違いなく昔から扇情的な報道はあったはずですが、それを視聴する側の入れ込み方が変わってきたのでしょう。かつては傍観していたものが、悪い意味での感情移入へと……
ジャーナリストの藤井誠二氏は「たとえこれから凶悪犯罪がどんどん減っていって、1年間に殺される人の数が1人しかいないというような事態になっても、今の重罰主義は続けていくべきだ」(「週刊金曜日」での森達也氏との対談)などと言っておりますが、そういうことはせめて自分の家の隣に刑務所を誘致してから言ってほしいものだ、と私は少し呆れました。
彼だって安易な重罰化の結果、日本の刑務所がパンクしかかっていることはご存知でしょうに・・・。
それにしても、今の日本の歯止めなき重罰主義が収束していく時は来るのでしょうか。つくづくそれだけが心配になります。
いやはや、ひどいジャーナリストには事欠きませんね。まぁ、ジャーナリストには限りませんが。ここは一つ藤井誠二氏には治安のため被害者遺族のためと言うことで、藤井氏宅を収容所として接収することでも提案すべきででしょうか。
それはさておき、犯罪以上にこの歯止めの掛からない重罰主義、こちらの方がむしろ、我々の社会に暗い影を落とすような気がしてなりません。