京都 洛北の時計師 修理日記

時計修理工房「ヌーベル・パスティーシュ」京都の洛北に展開する時計修理物語。
夜久野高原で営業再開しました。

時計師の京都時間「お掃除の時間」

2024-01-29 12:24:01 | 時計修理

ところどころに雪が残っている夜久野町です。写真は一宮神社(いっきゅうじんじゃ)。屋根から滑り落ちる雪の轟音で眼が覚めました。

昨日は一宮神社の隣にある公民館の掃除に行ってきました。28日は地域の掃除の日でした。びっくり!その公民館の中に豪華な「十一面観音」が安置されていました。観音様を取り巻くように30体ほどの仏像が並んでいます。まるで三十三間堂を小さくしたような豪華さです。これは元お寺さんがあった敷地跡に公民館を建てたというので地元民になった私が見ることが出来ました。私の審美眼では国宝級の文化財のように見えます。この土地は平安時代からの夜久野町の隆盛ぶりを思わせます。福知山市の前は天田郡といって養蚕業が盛んな町、工房にも二階に広い蚕部屋が残っています。紫式部が使った十二単の絹織物もこの地方が産地だったのでしょうか?町内に「衣川」と言う苗字に人が多いが絹にちなんだ(きぬがわ)になります、「ころもがわ」さんといって失敗した。また「応仁の乱」名残の遺跡もあるそうで山の雪が解けるのを楽しみにしています。

古民家、京町家再生では地域の行事には必ず参加するのが移転の条件でしょう。上京区の「京町家」再生プロジェクトで西陣地区では町内会長までやった。今回は長崎・南島原市からお祭り2年ほど留守にしていたので7月の「祇園祭」と10月の夜久野町「額田の山車まつり」が楽しみになります。68歳の私なので田舎特有のプライバシイー侵害問題などは皆無、実にオープンな貧乏人なのだ。

ところで旧住所の南島原市は「島原の乱」後に一番大きな悲劇が起きたことは教科書に載らない。残念!「松平伊豆守」のキリスト者絶滅政策で女性子供含めた虐殺によりがら空きになった土地に九州諸般を中心に石高一石につき四家族を移住させる政策が取られました。それぞれ空白の土地を埋めるため強制的に移住政策が行われました。7万石の平戸藩は28家族、多いのが熊本の細川藩、薩摩藩などでしょう。その名残が今でも続いているようです。住んでいて違和感があるのが島原半島はバラバラで統一感がない、島原半島の花火大会などのイベントがそれぞれバラバラで開催されます。口之津、北有馬、有家、布津、深江など各町内別の日時に開催され、南島原市全体でまとめて盛大に開催されるイベント行事はない。

布津の花火大会に有家の住民が行くこともない。またそれぞれ競争のように運動公園を作るので島原半島の干拓地はグラウンドだらけで雨が降ると雨天施設がないのでどこにもいけない。

この悲劇そもそもの要因は有馬藩のバカ殿が経済優先目的でイエズス会を優先、キリシタン大名となり島原半島全体をキリスト教に統一、雲仙岳の温泉地まで含めて寺社仏閣を破壊した政策から「島原の乱」事件が始まりました。秀吉がキリスト教殉教者26名を四条堀川からわざわざキリシタン大名の雲仙まで連れて行って虐殺した示威行為は有名です。平戸市の松浦藩もキリシタン大名だったことから生月の「隠れキリシタン」になる。九州人はいきなり宗派を替えるような器用な民族ではない。そもそもの発端は経済優先、資金に眼がくらんだ大名たちでした。

現代の自民党安倍派の裏金事件と繋がっているように思える、金に眼がくらんだ政治家の地元選挙民があわれだ。「今まで集めた裏金全部を能登半島災害の義捐金に回しましょう!」そんな政治家だったらもっといい社会になっているでしょう。長い歴史をもつここ夜久野町に移住して驚くことは歴史の深さです。夜久野町の歴史書を見ながらやっと「明智光秀」までたどり着きました。ミミズが這った様な日本語を読めないので苦労しています。高校生時代に古文の時間を居眠りした祟りが今になっています。

コメント
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