オセロゲーム黒優勢(佐竹氏)

2017-07-31 00:00:31 | 歴史
先週、弊ブログのPVが少し上がった日があり、調べてみると2009年4月14日の「大名の子孫とも言い切れない新知事」という記事だった。

2009年4月に自民と社民の協力を得て、民主党推薦の候補者を破り秋田県知事になったのが佐竹敬久氏。その後、2013年には対立候補現れず無投票で再選。2017年4月の選挙ではチャレンジャーは自分の前に三期知事を務めた大先輩と共産党推薦候補。三人の候補者の平均年齢は71歳を超えた。

そして佐竹知事が問題になったのは、7月22日の大雨で翌日にかけ県内各地で崖崩れや河川の氾濫が起きたのに、宮城のゴルフ場から帰ってこなかったこと。そして誰とプレーしていたのか、ウソをついたことだ。

まず、22日は土曜で休日なので、ゴルフに行くことを妨げることではないが、そもそも秋田と宮城は隣じゃない。秋田から東に向かうと岩手で、その南が宮城。つまり遠いわけだ。そして、ゴルフのメンバーは知事と県庁の部長二人、そして県庁OB4人の合計7人だそうだ。言い出したのは知事だそうでOBというのが先輩なのか退職者なのかはわからないが、まあ身内的だったということだろう。

朝7時に県庁に集合し、クルマ2台に分乗。そのままゴルフ場でプレー。その後、泊りで飲食。

翌日、朝9時に出発し県庁に向かうが、途中の道路状況が悪く、予定の11時には間に合わず、会議終了後の13時にやっと到着。その後、同伴プレーヤーの名前でウソをついた。

まあ、問題点を列挙すると、

「ゴルフ場の選択が遠かった」
  県内のゴルフ場でないため、中止あるいは途中終了でゴルフ場に遠慮した可能性あり
  急遽、県庁に戻る事態を想像していなかった

「当日、中止にすればよかった」
  ゴルフ場に遠慮したのか
  同伴メンバーに遠慮したのか
  あるいは、どうしてもゴルフをしたかったのか

「7人が2台に分乗」
   高齢者の運転車に知事が悪天候の中、乗ったというリスク

「少なくても午前中の9ホールが終わった段階で、帰ればよかった」
  車2台でいったので、知事を誰かが乗せて帰ると、後の人たちが困るとか

「泊まって飲食をやめ、プレー後すぐに戻ればよかった」
  そういう進言をする人がいなかったのか。あるいは進言を無視したのか

「翌日、9時に出発せず6時か7時に出発すれば会議開始には間に合った」
  朝食が食べたかったのだろうか

「同伴者の名前に嘘をつく」
  何か、明かにできない理由があったのだろう。


という展開になっていて、幸か不幸か、「知事はいなくてもいい」ということが証明されたような気もする。


そして8年以上前に自分で書いた佐竹家のことは、すでに書いたことすら忘れてしまっていたのだが、内容を読み直すと、

知事は佐竹北家といって大名である佐竹家の分家だった。それでも明治には男爵であった。佐竹家の数奇なオセロゲームは家計を遡ると源頼義に辿り着く。源氏の中でも初期のビッグネームであり武家では最高ランクの血筋だ。武士が台頭してきた平安後期には茨城県に勢力を保っていた。しかし、何を間違えたのか源平合戦で佐竹氏は、最初の頃は平家に回っていた。しかし、源頼朝の勝利が見えてきた頃、源氏にすり寄るのだが領地没収の上、鎌倉幕府の家来に格下げとなる。そして鎌倉時代の大部分は細く長く耐え忍ぶ。

そして鎌倉幕府崩壊寸前に動く。足利尊氏に取り入ったわけで、運よく室町幕府の要職を得る。応仁の乱が始まり、元の茨城県で周辺の豪族を謀殺して支配権を拡げる。そして大成功が秀吉の小田原攻めの時の立ち回りで、逃げる北条勢を小田原城に押し込むことに成功。秀吉にすり寄り、ついに54万石を茨城に得る。

しかし、その後の関ヶ原の戦いで大失敗。西軍から東軍に寝返ったものの、事前に石田三成とも二又交際をしていたことが発覚。三成との秘密書簡を家康本人から突きつけられ、秋田転封で20万石に大幅格落ちとなる(追い出された茨城県には御三家の水戸徳川藩が座るのだから、家康に嵌められたのかもしれない)。

ここまでで、オセロゲームは○●○●◎●。

そして次のチャンスが幕末。一般に東北諸藩は幕府寄りで薩長軍と戦っていたのだが、佐竹家は一早く薩長側に支持を表明。起死回生を図るのだが、表明が早すぎたため、逆に東北諸藩から総攻撃を受けることになる。ここで、佐竹藩が持ちこたえられなければ、長い佐竹の歴史は終わり、藩主、藩士ともに後に靖国神社にまつられることになり今回の不祥事は起こらないのだが、何とか援軍到着まで持ちこたえることができた。しかし、実利的なご褒美はほんのわずかで、しかも廃藩置県ですべて無に帰す。

一方、明治維新の後、佐竹本家が五段階貴族(公侯伯子男)の上から二階級目に座ることになった余禄で家臣の佐竹北家はぎりぎり男爵の椅子を得る。佐竹本家の侯爵は鍋島(肥前)、山内(高知)という維新の準主役と並ぶ大優遇措置である。佐竹北家が、最下級であっても貴族枠に滑り込んだのは、本家が第二ランクになったためだろう。つまり戊辰戦争で不利な戦況の中、粘り抜いたからで、その余力をもって末裔が秋田市長になり、県知事になった。

佐竹家はどうも関ヶ原以降、苦戦の連続のような感じがするが、今回の不祥事もいつものようになんとか耐え忍んでいくのだろう。その先に待つのがどういう運命かは不明だ。

なお、佐竹家本家の代々収集されたお宝は、東京九段にある千秋文庫という博物館に収蔵されている。まだ行ったことのない博物館の一つだが、特に興味があるのが、上記略歴の中に書いた「家康に突き付けられた二股交際の動かぬ証拠」類。

たぶんないかな・・・