鳩森八幡神社の富士塚

2017-07-30 00:00:51 | 美術館・博物館・工芸品
昨日に続き、千駄ヶ谷の鳩森八幡神社について。実は由緒の古い神社であるが、境内の一角に富士塚がある。富士山のミニチュアモデルの山で、高さは10m位か。

こういったミニ富士が関東にはたくさんあるのだが、造り始められたのは1780年からだそうだ。第一号は高田馬場。残念ながら1964年に、敷地が早稲田大学の拡張工事のため、立退き。富士山は崩され、近くの別の場所に移転された。建物ではないので、土を運んだのだろうか。貴重な文化財を金銭と等価交換したわけだ。そのため、江戸第一号の資格は第二号の千駄ヶ谷鳩森八幡神社に移った(といっても現存一位という意味)。

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千駄ヶ谷の富士塚が完成したのは1789年だが、この頃、関東一円に多くの富士塚が立つことになった(「立つ」という動詞が正しいのかやや不安だ。国語の先生がいたら直してほしいが)。関東一円には50ヶ所もあるそうだ。私が今住んでいる横浜の北部にも知っているだけで2ヶ所の富士塚があるが、それは土でできた丘なのだが千駄ヶ谷の富士塚は半分ぐらいの材料は岩のように思える。コンセプトが現物のミニチュアなのだろう。

実は、恥ずかしながら、富士塚というのは、そこに登って富士山を見るためのものだと勘違いしていたのだ。よくある「富士見坂」とか「富士見町」という類と混同していたのだが、ただ見るためのものなら「富士見塚」となるはず。江戸城富士見櫓もそういったネーミングなのだろう。

では、富士塚とは何を目的とした物で、なぜ急増したのか。まず、目的だが、これははっきりしている。疑似富士山旅行だそうだ。江戸時代の旅行というと、まず伊勢なのだが、これは遠すぎるわけだ。一生に一回もの。奥の細道みたいな怪しい旅もあるが、これも庶民は難しい。伊勢原にある大山神社などは手ごろで往復5日といったところだが、もっと手軽なレジャーということで、都内の富士塚が好まれたようだ。スカイツリーみたいなものだろう。

そして、江戸時代は1700年前後から最初の停滞期に入っていて、幕府の財政難から緊縮財政が始まっていた。しかも1707年には宝永大地震に継ぐ富士山の宝永大爆発があり駿河、相模、武蔵は火山灰でおおわれてしまった。その後は吉宗の登場で経済は行き詰まっていく。

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そして、1780年代からの時代は、あの浪費家の田沼意次の時代である。意図したか不明だが景気は回復に向かう。その時に旅行ブームになり富士塚が増えたのだろう。しかも1780年といえば富士山爆発から73年。古老の伝承はまだリアリティを失っていなかったのだろう。いつ爆発するかもしれない・・。

もう一つ、富士塚観光の理由としては、富士山は当時は女人禁制だった。女子が富士山に登ろうとしても果たせなかったわけだ。江戸市内の神社の富士塚が女人禁制だったかわからないが、たぶんそういうことはなかったはずだ。そもそもレジャー施設なのだ。女子が登れる富士山でもあったはずだ。


ということで、現代でも理論的には富士登山の代替として富士塚に登るという行為は、不合理ではないのだが、10m登っても登山的喜びは湧かないだろう。

しかし、中には、富士塚の意味を間違えていて、「富士塚に登ったところ、遠くに美しい富士山の姿が見えた」と大きく感動する人がいても不思議じゃない。

しかし、「富士山を見る場所じゃないから・・」と冷水を浴びせるような発言は、できれば慎んだ方がいいと思う。が、うっかり口にして、それがもとで喧嘩になったら「出典は、あるブログ」とでも言っといてくれればよろし。