衆生は常に苦悩せり。盲冥(もうみょう)にして導く師なし。苦しみの尽きる道あるを識(し)らず。求むれば解脱する(道ある)を知らず。長夜、(ただ)悪趣を増すのみ。減損する諸々の天(人)衆(生)は、冥(くら)きより冥きに入って、永く仏の名すらも聞かず。 法華経「化城諭品第七」より
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命あるこの世の人々は常に苦悩に沈んでいる。目見えず、理暗くして過ごし、教え導いてくれる仏に出遭おうとしていないので、その苦悩が尽きてしまう道があることを直視していない。(仏道を)求めようとすればその苦悩のサイクルから離脱していけるということを知らない。惰眠を貪って月日を過ごすのみで、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に深入りをしている。気力体力勢力の衰えた天人衆(=天界と人間界の衆生)は、暗黒の世界から暗黒の世界を経巡っている。苦悩の衆生を救済をするために出現した仏の、その名前すらもいまだ聞いていない。
(これはさぶろうのいい加減な解釈文)(読者は読者なりの独自な読みをなさってくださいね)
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1,苦悩する衆生を救済する仏がおられる。
2,どれだけ衆生が苦悩しても、苦悩のまま終わるということはない。
3,法華経の世界を開示してもらっている。
4,ここを入口にして進んでいけばきっと救済者=仏陀に遇える。
5、苦悩することには重大な意味がある。苦悩の中では仏陀を思うことができるのだ。
6,苦悩の道は経由する中間点であって、ゴールではない。
7,苦悩を転じて、翻して、そこを離脱する道がある。それが法華経によって指し示されている。
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わたしはいい加減である。いい加減に解釈している。以上の1~7もわたしのいい加減な受け取りである。
解釈を施さないで、法華経(=仏が説いた教え)にただただ(瞑想して)浸っていればいいのだ。そんなふうにも思う。