<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

落ち着きが来るまであれやこれやを考えています。

2021年01月08日 20時08分13秒 | Weblog

わたしはもうすぐ死にます。

長く長く生きてきました。これだけ長く生きてそれでもなおかつ進歩せずに不平たらたらというのでは自然の理に合いません。

進歩をさかんに促されてここまで来たのです。

この世のダンマ(法)のお慈悲をいただいて、智慧を頂いて、ここまで辿り着けているのです。

そうやってお助けを仰ぎつつ長く長く生きられたということ、それだけで満足を覚えていないと行けません。バチが足ります。

ですから、わたしの小さな器にはよろこびを満たしておいていいのです。ともかくもここまで進んできたのですから。

よろこびといっても、巨大でなくていいのです、小さくていいのです。些少でいいのです。

文句を言えた身柄ではないのです。ここまで生きて百も千も万もお情けを頂戴しながら、それでも足りないなんて言えた義理ではないのです。

寝ようとしながら、寝ずにまだ起きています。落ち着きが来るように、あれやこれやを考えています。

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遇えたこと、そのよろこびを噛みしめる。

2021年01月08日 19時59分36秒 | Weblog

人。

人に会う。

人に会えるよろこび。

この世にいて、会って下さる人がいる。

無理がない。どちらも。

無理はさせていない。

強制していない。

だから邂逅ということになる。

それでもそれがまた不可思議。理屈には合わない。

それでいてわざとらしくもない。

自然な流れで会っていることになる。

その自然な流れというよろこびを噛みしめる。

でもそっとそっと。そっとそっと。

相手にも気づかれないようにして。

一人で噛みしめる。あなたに遇えたこと、そのよろこびを噛みしめる。

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庭に臘梅が咲いていました。一枝摘んで来ました。

2021年01月08日 19時42分01秒 | Weblog

臘梅が咲いていました。一枝、摘んで来ました。コップに水を入れて机上に飾っています。香りがします、ほのかに。臘のような感触がします。梅の名前がついていますが、梅の種族ではないそうですね。

季節を知らせてくれます。時間が次へ次へ移って行っているのを教えてくれます。時は一時も留まらずに進んでいます。時のコンベアーに乗りたくないと思っていても乗っています。わたしもまた次への変化を受け入れていくしかありません。

それが不安? 不安になっているかも知れない。だけど、抵抗はできない。その通りになるしかない。順応をして行くしかない。でも、それはいい方向へいい方向へと流れているはず。嬉しい方へ喜びのいや増す方へ繋がって行っているはず。

おやすみなさい。今夜はこれでおしまい。やすみます。

え? まだ8時にもならないのに? 夕食の時に焼酎を飲みました。お湯割りで1合ほども。酔っ払いは眠いのです。一眠りをしたら目が覚めます。夜が長く長く感じられます。

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過ぎてみたら分かる。過ぎてみるまでは分からない。

2021年01月08日 19時19分03秒 | Weblog

過ぎてみたら分かる、助けられ助けられ守られ守られて来たことが分かる、此処へ、良い方へ導かれてきたことが分かる。

苦しみも悲しみもみんな通り過ぎて行くべき必要十分条件だったってことが分かる。

そこを通り過ぎて超えて来た。超えさせて下さったお慈悲が身に染みる。身に染みるためには、どうしても必要なことばかりだったのだ。

通過点通過点でその都度その都度、文句たらたら言い散らしてきたことが羞じられる。しかしそれも避けて通れない通過点だったのだ。お許しを頂きたい。

今夜は冷える。気温はマイナス1.5℃。明日はもっと冷え込むらしい。

それを受けよう。寒さを受けよう。その先にその先に、春が待っているのだから。

お風呂にも入った。温まった。もういつやすんでもいい。

夜は長い。朝方、夜明けまでは長い。その間にトイレに3度も通う。これがまた辛い。辛いが、これくらいなことなら耐えられる。耐えるとしよう。

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鬱は朝も昼も夜もない。生きて地獄行きは苦しい苦しい。

2021年01月08日 15時43分23秒 | Weblog

大雷雨鬱王と会う朝の夢    赤尾兜子  NHK俳句1月号から

「鬱王」とは誰ぞ。数ある憂鬱人(ゆううつびと)の中でもひときわ優れて憂鬱する者、王者と呼べる者、それは己なり。今朝の夢も酷かった。地獄に堕ちて呻き苦しんで転げ回っていた。夢の中にまで雷雨が轟き渡っていた。大げさではなく大雷雨だった。憂鬱人ではなくて、憂鬱の王者だった。

季語は雷雨か。ややユーモアを感じる。己を少しだけ突き放してみているようだ。するとそれが可笑しくも見えたのだろう。

鬱は鬱になった者でなければ分かるまい。その苦しみが分かるまい。その心細さが分かるまい。その重さが分かるまい。絶望の淵の深さが分かるまい。

わたしはしかし立ち直れた。長い長い闘病生活だった。よくぞ生き残れたと思う。負けるまい負けるまいと己に鞭を当てたからでもあろうが、わたしの場合は神仏に救ってもらえたからだと思う。手を取って導いてもらったのだと思う。わたしの自力ではとてもとても助からなかったはずだ。

鬱は朝も昼も夜もない。苦しい苦しい。うなされてばかりだ。よほどの者でない限りその荷の重さには耐えられない。地獄行きができた者は、だから、相当な強者でもある。わたしはそこを乗り越えてきた。その経過、その回復の道のりは不思議としか言い様がない。

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俳句の勉強をしています、今僕は。こんな老齢になってから。

2021年01月08日 15時22分32秒 | Weblog

冬桜総身湯気の馬通る   今井 聖   NHK俳句1月号より

昔々、田舎には馬がいた。牛もいた。昔も昔だ。彼らは田畑で働いた。人間と一緒になって泥まみれになって、水田を行ったり来たりして耕した。一日働いた。荷馬車に積み荷を積んで運んだ。山に入って木材を引いた。鞭を当てられて汗びっしょりになって。牛の汗はあまり見たことがないが、馬が汗を掻いて全身から湯気を立て進んで行くところはよく見かけた。馬が強く臭った。夕方には川に入って水で汚れを洗ってもらっていた。牛も馬も大事にされた。農夫はみな朝早くから食べさせる草の草刈りに行った。彼らはよく病気もした。夕方になって、バイクに乗った獣医さんが駆けつけていた。

冬桜とあるから時忘れの桜だろうか。寒い冬に汗を掻いている馬。重い物を運んで走る馬挽き競争の馬なのだろうか。

俳句の勉強をしています、いま、僕は。どんな作品がいい作品なのかわからなままです、いまだに。こうやって雑誌に名句秀歌が紹介されると有り難いです。

働いて働いて汗を掻いて湯気を立てて、憂いを忘れる方法がある。悲しみ苦しみを忘れる方法がある。牛も馬も人も、内に煩悶と邪念と憂鬱を抱えるものはすべて。

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生きて来たことを否定したくはありませんから

2021年01月08日 14時45分16秒 | Weblog

無花果を喰ふや来し方肯定す    神奈川県 古屋徳男

NHK短歌1月号に載っていた作品です。わたしは一読後、「来し方肯定す」に惹かれました。肯定したいからです。

無花果は暑い夏の果物。我が家にも実ります。甘くておいしいので、家族みな大好きです。七月~9月まで食べられます。次々と成熟していきます。カラスたちがいつも空から狙っています。横取りされることもちょくちょくあります。ジャムにして喰うこともあります。

甘くておいしい果物は人を甘くしてくれます。判断を甘くしてくれます。それで、「ああ、来し方は良かったなあ」「この年になるまで無花果をこんなにうまく食べられる人生だった」などと大雑把に掴んで、幸福を感じてしまうのです。暑い夏の日なので、首筋からたらりたらり汗が流れ落ちます。

生きて来たことを否定したくはありません。いい人生を恵まれた、暑い夏の日には栄養豊富な無花果を食べられた、こんな贅沢が味わえた、などという感情が浮かび上がってきて、己の生誕とその後の走りを肯定したくなるのです。大掴みでいいのです。無花果でなくてももちろんいいのです。

肯定をしてみん此処に寒椿       山鳩暮風

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失望ではなくて希望が灯る作品として読んでみたのだが、

2021年01月08日 13時53分47秒 | Weblog

茶の花や赤子を抱いて姉戻る    千葉県 叶矢龍一郎

これはNHK俳句1月号の入選作品。西村和子選2席。題は「茶の花」。

勉強させてもらう。

濃厚なドラマが窺える。離婚をして戻って来た姉を迎え入れている弟がいる。姉は赤子を抱いている。赤子の頬に頬を着けている。離婚をしたけれど、これでこれから生きていける。失望ではなくて希望が灯っている。楚々とした希望が、楚々として咲いている茶の花に重なり合う。

弟もそんな姉を否定していない。支えて行こうという気持ちになっている。

昔、村里には家の周りに茶畑があって、茶葉を炒って、茶をこしらえていた。茶の花が清楚な香りで家々を包んでいた。

僕はそういう読み取りをしてみた。見当違いかも知れない。

枯淡な境地を詠み深めるのが俳句なのかもしれないが、我が鑑賞は生々しい。生々しいドラマを拾い出してみた。

人間が詠むのが俳句。ドラマが入っていておかしいことはない。

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人と人とは互いに相手を求める。求め合う。

2021年01月08日 13時32分40秒 | Weblog

求め合ふあいだとなりて雪の道       山鳩暮風

これはわたしの今朝の即興の俳句。俳句のつもり。俳句になっていないかも知れないが。

もち、願望の籠もった作品。

人と人は互いに相手を求める。求め合う。おとことおんなはさらに。さら切実に。心と体を捩るようにして。求め合う。足りないところを求め合う。足りているところは与え合う。己の弱さを知る。知ってもらう。これでやさしくなれる。睦まじくなれる。心穏やかに生きて暮らして行けるようになる。

そういう二人が雪の道に降り立った。雪は凍り付いている。滑らないように用心しながら、手を取り合って歩く。歩き出す。朝の光が雪を反射させてまばゆい。拒否ではなくて互いをそのままで受け入れる。そういう間柄になったことが何より嬉しいではないか。

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風景にはドラマがある。悲しみと喜びのその双方の。

2021年01月08日 13時06分50秒 | Weblog

生徒らと五月の朝の窓開けて       長谷川素逝

これもNHK俳句1月号から。これも俳句なのか。すぐれた俳句なのか。素人のわたしには分からないが、風景が目に浮かぶ。生徒たちがいる。先生がいる。朝のホームルームが始まる。その前に窓を開け放つ。淀んでいた空気を入れ換える。五月の青葉の匂いのする風を迎え入れる、先生と生徒が一緒になって。四月に始業式を迎えてそれから一月が経った。新しい友人もできた。

一人来られなくなった仲間が居た。彼は教室に馴染むことができなかったのだ。登校を拒否した彼のことを考える。先生と生徒たちは彼を見捨ててなんかいないのだ。彼は恐怖心の塊になっている。教室が地獄に見えている。それを打ち破る勇気が出せないで居る。風景にはドラマがある。悲しみと喜びの両方のドラマがある。

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