Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

龍雲寺を訪ねる

2018-11-28 23:08:24 | Weblog
 検査で県立病院に行った帰り、病院の近くにある戦国時代の大名今川氏親の正室である寿桂尼を祀る龍雲寺を訪ねた。先日慈悲尾にある今川氏親の菩提寺・増善寺を訪ねたが、正室の寿桂尼の墓がなかった。そこで寿桂尼がどのような生涯を送りこの龍雲寺に眠っているのか調べた。寿桂尼は藤原北家出身で高位の公家の娘である。その彼女が京都から守護大名であった今川氏親のもとに嫁いできたのは当時今川氏は東海一の弓取りと云われた大名であったからだと思う。

 今川氏親との間に3男一女をもうけている。長男・氏輝、次男・彦五郎、3男・義元、一女は瑞渓院(北条氏康の正室)である。その頃の、今川氏の勢力圏は三河から伊豆まで勢力下に治めるほどの勢いがあった。しかし氏親が53才で亡くなり、慈悲尾の増善寺に葬られた。この時の寿桂尼は30代後半から40代前半の年齢であったと思う。その時、嫡子氏輝は幼く成人するまでの間、「尼御台」と呼ばれ発給文書には寿桂尼が氏輝に代わって行っている。この氏輝、彦五郎も若くして相次いで死去、後を継いだ義元も桶狭間の戦いで無念の死となった。その後を継いだ孫の今川氏真も支え戦国の世を生きた。今川義元の時代までは勢いがあったが、今川氏真になると周りにいた大名達は今川氏の領地を簒奪しようと狙っていた。そんな中でも寿桂尼は「尼御台」として氏真を援けながら波乱の人生を閉じている。年齢は80才に近い年齢であったと云われている。

 寿桂尼は死の直前「死しても今川の守護足らん」と言い残し、駿府・今川館の鬼門の方向である龍雲寺に埋葬された。死して9ヶ月後に武田信玄が駿河に侵攻、時を同じくして徳川家康も遠江に侵攻し今川氏は滅亡の道を辿った。龍雲寺は、静岡から北街道を東進し、沓谷3丁目を右折し100mほど入った谷津山の北麓にあった。寺社は平成7年に建て替えたとあるが寂しさを感じさせる小さな寺であった。この境内の細い裏道(幅40cm)を登って70mほど入った所に2対の4輪塔(5輪塔の一輪が無くなっている)があった。一つは寿桂尼の墓、一つは妹の黒木方の墓という。塔は傾いていて今にも朽ちそうな状態であった。とても今川家を支えた人の墓とは思えなかった。本堂前に、寿桂尼 生誕6百年記念で建立した石碑があった。その碑文に「とつぐ」と書かれた文字があり、父親の中御門宣胤が駿府に下る娘に贈った印判で、寿桂尼の発給文書に使われたものとあった。

 寿桂尼の生涯は、今川氏を盛り立てようと奮闘した一生であった。しかし、最後まで守ろうとしたがそれは報いられなかった。残った今川氏真は、戦うと云うより逃げ回って敗れた感じである。その後は徳川の庇護を得て徳川幕府では「高家」として明治維新まで続いたと云う。それでも寿桂尼の無念さは消えない。






























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