Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

奥浜名を回る(2)

2017-11-29 20:10:34 | Weblog

 朝6時には目を覚ました。カーテンを開けると雄大な浜名湖が、薄明かりの中で広がっていた。そのまま布団に戻り腹ばいでテレビを見ていた。弟と朝ぶろに行ったのは7時頃であった。浴場が男女入れ替わってたが、嗜好を凝らした良い風呂であった。この浴場も団体客もいなくゆっくり湯船につかった。朝食を食べてから、今日の行程を皆で話した。先ず舘山寺に行き、そのあと井伊谷の龍潭寺周辺を散策、二俣城址と徳川信康の陵墓、高天神城址を見ることにした。私のにわか知識できょうだい達に井伊家の歴史など話してから出発した。

 最初の舘山寺は、井伊家とはあまり関係がないところだが5年ほど前に中国に行き蘇州の寒山寺を見たことがあった。その時、添乗員から寒山寺にまつわる寒山、拾得の話を聞いた。その話は「寒山、拾得は仲の良い和尚で、拾得は日本に仏教を広めるため渡来した。その時たくさんの書物を持ってきたが帰りに舘山寺に寄贈していった。それ故舘山寺の舘は、書物をたくさんあると云う意味なんだ」と聞いた。しかし日本ではそうした伝えはないようで調べたがわからなかった。そんなこともあって行ってみたが、この寺は西暦810年弘法大師によって開かれた寺で中国寒山寺との友好提携寺と云ったが拾得和尚が図書を寄贈したとは誰からも聞けなかった。

 車で移動し井伊谷に入った。ここの地形は平坦地のように見えたが西と東に低い丘が連なっていて、ここが谷となっていることが分かった。その北の麓に龍潭寺があり、これを囲むように井伊谷宮(宗良親王を祀った神社)や井伊氏初代の共保が生まれたと伝わる井戸があり北側の丘陵地に井伊谷城址が見えた。龍潭寺は、行基開創とあり平安時代井伊氏の元祖井伊共保が生まれ、その後井伊氏は遠江の有力武士として名を連ねた。室町時代20代井伊直平に帰依された黙宗瑞淵禅師が新たに開山となった。24代井伊直政は徳川家康に仕え活躍した。この直政の後見人として養育したのが22代井伊直盛の一人娘井伊直虎であり、危機の連続であったが龍潭寺二世 南溪和尚等の助けもあり持ちこたえる。その後直政は、徳川四天王の筆頭に出世している。この龍潭寺は、40代の祖霊を祀る井伊氏の菩提寺として現在に至っている。

 今日も多くの来観者が押しかけ、参道から本堂に至る道は人の列ができていた。境内の西端に井伊家の墓所があり歴代藩主が眠っていた。また庭園は小堀遠州作で、四季折々の変化に富んだ庭を縁側があり座って眺めた。戦国時代織田家、今川家、武田家の列強領主に囲まれ存亡の危機に晒されながらも、おんな城主 直虎は周りの人に支えられながら生き延び、その後は徳川家に仕え250年の江戸幕府を支え続けた井伊家のルーツがここにあることを感嘆しながら眺めた。


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