日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「補講」も今日で最後。ホッとしているかな。でも、ホッとできない人もいますね。「N4漢字テスト」が残っている人は、「休み」中も来なければなりませんから。

2024-03-29 06:58:33 | 日本語学校
小雨。

まだ薄暗く、今はパラパラ程度ですが、これからだんだん雨が強まるとのこと。最近は雨の降る時間帯も、予報より少々遅れているような…これも春特有の寒気と暖気のせめぎ合いによるのでしょうか。やんでからはお日様がカッカと照り、気温もグンと上昇するそうですが。

さて、学校です。

「補講クラス」では、今、漢字を主に「読解」を進めています。新「Aクラス」に戻ると(四月からの新学期)、他の人たちは、「N5」「N4」漢字や「N3」漢字にはそれほど問題が無いので、一緒の授業の時には、(彼らのために)それほどの(漢字)「書き」や「読み」の時間をとるわけにはいかないのです。この二週間の間に、新しい課に進んだ時にはどうすればいいかを身につけてくれるといいのですが、まあ、しばらくは様子を見ながら、いろいろと加えていくしかないでしょうが。今は、「N5」と「N4」漢字の読みも毎日しています。

「N3漢字」はともかく、「読解文章」中の漢字でも、既に「N4」や「N5」で学んだ漢字には、直接、「一緒に」と言って書かせるか、「大丈夫でしょう、一人で書いてごらん」などとやらせるかしているのですが、ただ、皆、書けるかというと、そういうわけでもない。やはり、一画一画確認しながらでなければ、書けないという字も少なくない。で、その都度、回数を増やしています。

ただ、これをやっていると、本文を読む時、ずいぶん楽に(漢字が)読めるのです。やはりな、回数かと思ってしまいます。しかしながら、この人たちには、それを授業中やる時間がそれほどない。自分でできるということで、上のクラスにあげたわけですから、頑張ってほしいと思うのですが。

勿論、新「Bクラス」は、漢字が苦手な人が多いので、クラスでも「書き」「読み」共にしっかりやっていくつもりなのです。

漢字の練習で、「一緒に」と言った時、すぐ手を上げて、大きく動かせる人と、どうしてもじっとそれを見てしまう人とがいる。もとより、それぞれ、覚え方、練習の仕方がありますし、手を上げて書いているからといって、覚えられると言うものでもないのですが、やはり、手を動かす回数が多いに越したことはないのです。

「見て理解」というのと、「書いているうちに覚える」との差は案外大きそうな気がします。これも「職人さんの作業」と同じなのかもしれません。日本の教育というのは、「職人」を育てるのに適しているような、それがいいのか悪いのかはわかりませんが。「見て覚えろ。やって覚えろ」というのが、私の中にもしみこんでいるような気がします。それで学生たちにもそう言ってしまうのです。

漢字など、努力を要するものは、一回二回と書く回数が多くなれば、それだけ「手がなれて」来るでしょうし、覚えられる確率も高くなるというのも本当でしょう。ただ、だからといって、覚えられるかというとそうでもない。中には、「先生がうるさいから」、「やれと言われたから」といって、「写している」だけの人もいるのです。

こちらにしても、どうも、「部首」や「漢字のバランス」が苦手の人が多いなと思えば、「部首」は極力少なめに言い(その都度、こちらが言うだけにし)、バランスをとる際も、「ここは右と左に分かれている」とか、「この字は上下に分け、上半分はまた三つに分かれている」とか言うにとどめています。

この左右に分かれている文字にしても、左右共に下を揃えるとかいうのも、未だになかなか浸透しません。

さて、この「補講」も最後の日を迎えました。ホッとしている人もいれば、ホッとできない人もいる。「十月生」の一人はまだ「N4漢字テスト」を全部終えていません。それ故に、春休みが明ける前には全部合格する必要がある。昨日はその取引でした。…「週一回はだめ?」「終わらないでしょう」…「じゃあ、週に二回、来なければならない?」「そうなりますね」

それから、来年の三月に高校受験を目指している人は「算数」段階でちと問題があるので、宿題を出すことに。

尤も、休み中はいつ学校に来て勉強してもいいのです。自習用の教室もありますし。でも、来ませんね。来なさいと言わない限り。時間があるなら、来て勉強した方がいいと思うのですけれども、近くの人が大半なのですから。

日々是好日
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春の花。「レンギョウ」「ユキヤナギ」「タンポポ」…。「スミレ」はまだかいな。

2024-03-28 08:07:43 | 日本語学校
曇り。

鳥がチュンチュン啼いています。今、声が聞こえている割には、公園に鳥の姿は見られませんでした。しかしと言っては何ですけれども、スーパーの裏に「レンギョウ」の花が咲いているのを見ましたし、通りに面したお宅では、「ユキヤナギ」の花が満開でした。昨日は帰りに「タンポポ」が咲いているのを見て、ワッとなりましたし、後は、「スミレ」だけかなんていう気分にもなっています。

各地から、続々と…とは行きませんけれども、ポツリポツリと「サクラの開花宣言」が出されています。関東はまだのようですが、土日は20度くらいになるとのことですから、週明けには満開になって…だといいですね。

「サクラ」なんて、朝と夕方ではまるっきり姿を変えてしまいますから、この1週間で、どうなるかわかりません。いつでしたか、花見を兼ねて友人と駅前のベンチでお弁当を食べたことがあったのですが、その数時間で、蕾が膨らみ、ほどけそうになっていった姿を見て以来、どうも信用できんという気が抜けきれません。そんな樹ですものね、「サクラ」は。油断は大敵です。

さて、学校です。

昨日も賑やかでした。

ベトナム人卒業生が三人やってきました。もう十年ほどになるかしらん。一人は家族を呼ぶことができたと言って、奥さんと小さい二人のお子さん連れでした。聞くと、この三人、よく会っているそうです。それぞれタイプは違うけれども、いわゆる「よくできる」人達。こういう人達を雇うことができれば、日本の会社も安心でしょうね。この学校にいた時でも、この三人には三者三様の頼み事をしていました。タイプが全く違っていますから。

ちょうど授業中だったので(本当に、日本の事情に疎い人達と同じで、連絡なしに突然来るんだか、もう、まったく)、休み時間にチョコッと(補講していた学生達が「どうぞ、どうぞ」と…、多分、「やったぜ」くらいの気分で勧めてくれたのでしょう)会ったのですが、もしかしたらチョコッとが、思いのほか長かったのかもしれません。戻ると、明らかに完全にリラックス状態の学生達がいましたから。

で、戻って、授業を進めていると、「久しぶりに教室を見たいと言っている」と、教師が彼らを連れてきました。2列目にずらりと並んで、授業参観です。補講の学生達は、3月の頭に『みんなの日本語』が終わったばかりですから、「簡単だよ」と言ったのですが。中の一人、それなりに真面目に聞いていました。

「春休み」ともなると、卒業した学生達も、「ちょっと学校に寄ってみようか」くらいの気分になるようで、突然の来訪が増えています。もっとも授業をしている最中ですと、補講ではあれ、今日中にここまでという計画がありますから、なかなかゆっくりとは相手ができません。一人はもうすぐ帰国するそうですが、残りの二人は、ずっと日本にいるつもりだそうです。住んでいる所も、東京と千葉県。これからもついでで来られるかもしれませんから、「またね」で送ることに。

今、このクラスというか、補講のクラスでは、いくつか「N5」,「N4」の復習を入れているのですが、漢字もその中の一つ。「漢字」ばかりは、「週一」のテストで合格しても、合格した途端、きれいさっぱりと頭から消えてしまう…。困ったね。そう言うと、当然という顔をされてしまいました。

「中級」の「読解」にしても、今は、その課をやる前に、漢字を「読み、書く」をしているのですが、新学期になれば、「N2」の人達と一緒になりますから、それはできません。自分たちで時間を作ってやっていくしかないのです。

それが、おそらく、出来ないであろう人達が、元のクラスに残っている…、とはいえ、やはりこの人達も、本来ならそれをやった方がいいのでしょう。

「四月生」で、残っている二人には、「読解」をやる時にも、その課の漢字を別に教えて書かせるというようなことはしませんでした。レベル毎の漢字を入れていれば、それで足れりとしていたのです。またそれで足りていましたから。ところが「七月生」「十月生」は、ごく普通の「非漢字圏」の学生達で、「読解」教材を教える時にも、出てきた「漢字」をいちいち「書かせ、読む練習をし、それから本文に臨む」をしなければならないでしょう。それくらい、多く漢字に親しむ場を設けなければならないのです。そうでなければ、ルビを振るという作業だけで、下手をすると三〇分くらい過ぎてしまうかもしれません。

漢字が読めなければ、何を言っているかわからない」というのが、そろそろわかってもいい頃だと思うのですが、まだ高をくくっているのでしょうね。学校での勉強では、読んでいますもの。「読みの練習」も必要ですから。その、聞いた話(?)から類推して答えているのでしょう。これは本当に危ない。先に、誰かに読んでもらわなくとも読めるようにしておかなければ、結局は実力とは見なされない…というのが、いつ、わかるのかな。もう、こっちの口も酸っぱくなっているし、工夫の種も尽きているんですけれども。結局は本人に自覚がなければ、始まらないのです。

日々是好日
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自分たちの「常識」は、あくまで自分たちだけのもの。異国の常識を理解しろとは言わないけれど、知っておいた方が、嫌な思いをせずに済む…ことが少なくない。られる

2024-03-27 08:00:22 | 日本語学校
晴れ。

朝はかなり寒くとも、昼にはポカポカになるという予報だったので、昼対応でやってきました。少々寒く、室内ではまだ暖房が必要です。

ただ、「今週末から、冬物は要らないでしょう」ということなので、春本番が、いよいよやってくると見ていいのでしょう。学生達も公園の「サクラ」やらを見て、和める時間がとれるかもしれません。いつでしたか、ベトナム人学生が、日本人が公園で花見をしているのに倣い、日曜日自分たちでもそういうのを開いたことがあったそうです。その頃はベトナム人学生が多かったので、彼ら一国だけの花見になったのでしょう。

時々、ベトナム人と中国人がよく似ているなと思うことがあります。人によりけりなのは当然なのですが、特に団体行動をとる時に、どことなく、「あれ?軍隊式だな」と思わせるような行動をとる人がいるのです。「さあ、ベトナム人(中国人)諸君、頑張ろう」とでもいう感じでしょうか。他の国の人達もいるというのに、天上天下唯我独尊みたいで、愛国心がバアッと全面に押し出されていて、しかも、それに条件反射のように、多くが反応のしているのですから、それはもう、ちょっとばかりというか、それ以上に、けったるい。

もちろん、最初は、当方としても「びっくらこいた」で、開いた口が塞がらなかった。けれども、すぐに、「止めなさい。ここは日本であるし、君たち(の国の人達)だけではない」と、こちらが怒っているのをわからせたのですが。当然のことながら、そういう社会で生きてきた人達にはそれがわかりません。おいおいに、わからせていくより他はないのでしょう。人数が少なければ(被害者ですから)、それがすぐにわかるのでしょうが、人数が多ければ、多数決と同じでそれが主流となるのです。

ただ、今は、こういう気配のない人達が多く、彼らも人数が少ないので、幅はきかせられません、いいことです。なにせ、今いる学生達(卒業生が、3月に去ったので)の出身国は、スリランカ、ミャンマー、中国、ネパール、タイ、バングラデシュ、インド、フィリピンと、小さな学校である割には、多国籍で、皆それなりに仲良くおっとりとやって行けていますから、まったく、こういう問題の出ようがない。

学生達の出身国が一国だけに固まってしまうと、どうしても「群れ」の悪い面が出てきます。いきおい、自分たちの「あたりまえ」が、こ、異国である日本においても、「あたりまえ」であると思ってしまうようなのです。それを改めさせていくのも、ある意味、日本における日本語学校の役目であるのでしょうが。

ここは、日本で、彼らにとっては異国である故に、「常識」も彼らの国のものとは違う。「郷に入っては郷に従う」ではなく、「郷に入っては郷に従え」ですね、まずは。

その上で、周りの人達との理解を得て、変えていくべきところは変えていく。と、こういう態度や考え方が必要であると。異国では、自分周辺に、いかに同国人が多かろうと、国全体として見れば、日本で生まれ育ち、祖父母も高祖父母も日本人である人達が圧倒的に多数なのですから。周りの理解を得ぬまま、「自分たち」を押し通そうとすれば、軋轢が生じるのは当たり前のこと。もちろん、よほどのことがない限り、排斥とまでは行かないでしょうが、嫌われることはあるでしょうね。

以前、日本語を習いに来ていた在日の中国人が、「私たちはここへ来ているんだよ。お客さんなんだよ。どうして(周りの日本人は私たちを)親切にしない」と文句を言っていましたが、私の返事は「客なら客らしくしろ」。とはいえ、この「客」に対しても彼我により捉え方の違いがあり、そこから態度の違いも生じてくるのでしょう。

日本なら「客らしく遠慮しろ」、彼らは「客は大切にされるべきである」。こういう認識の違いを相互理解していくというのは、なかなか難しいことです。

その人には、日本人の考え方を説明し、彼らがここでとるべき態度についても話したのですが、どうも、わからない(様子)。「どうして、どうして」と文句を言い募るだけ。「こりゃあ、しょうがないな」と、こちらも匙を投げた。こういう感性は、通じない人には一朝一夕には伝えようがない。これも適応力の有無、程度とも関係しているのでしょうね。

同国人であっても、人によっては、「ああ、日本ではそうなのか」で、すぐに理解してくれる人もいるし、態度を変えてくれる人もいる。が、年が長けていてそれができるかというと、それも無理なようで、結局、最初のその人は「被害者意識」のまま、日本嫌いになったようです。帰国して、自国で平和に暮らしていてくれればいいのですが、文句を言いながらも日本に居座られると、これもまた、お互いに不幸なこと。

日本人は島国で育ったせいか、どこへ行っても、ここの人はどう考えているのだろうとか、例えばキリスト教のことは多少知っていても、イスラム教のことはあまり知らないので、そういう国へ行った場合、まず動けなくなる。相手の様子がわかってから、少しずつ動いていこうという感じになる。それが自分の常識は世界の常識、皆、それに従え」という考え方が染み付いている人達だと、それはどこでも面倒を引き起こしてしまいます。

昔、日本でも、そういうことはありました。外国へ行く時に「何かあっても、すぐに『ごめんなさい』と言っちゃあだめだよ。」とか、「おもてなしだと考えて、うっかりサービスなどを受けてはだめだよ。後で請求書が来るんだから」とか、 痛い目を見た人達が、後人のために、戒めとして伝えていたのでしょうね。もう人口に膾炙していることですが。

日本の「当たり前」は、日本だけのものである。学生達にも、「君たちの『当たり前』は、君たちだけのものである」というのをよく言います。「自分たちはこうする」とか、「自分たちはこう考える」とか言い合えるようになるまで、自分たちの『常識』を現地の人間の前でおおっぴらに広げたり、押し付けたりするのは、やはり止めた方がいいでしょうね。

日々是好日
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近所の「しだれ桜」の先端に、幾輪かの花が…。

2024-03-26 08:38:19 | 日本語学校
曇り。…今は雨が降っています。

昨日まで、今朝は雨ということだったのに、曇りです。雨が降っていなかった…降っていると思って、ダラダラしていたのに、降っていなかった。窓を開けた時、愕然とした。…降っていない。慌てても、時すでに遅し。で、やはり連れて行ってもらうことに…。

昨日の帰り、学校近くのお宅の「枝垂れ桜」の枝の先っぽに、わずかながら、花が咲いているのを見かけ、東京の「開花宣言」はまだであるけれども、ここでは「桜の開花宣言」をしてもいいかなみたいな気分になりました。

桜が咲くと、どうしてこうも浮かれた気分になるのでしょう。これは年と共に深まってくるようで、子供の頃は桜が怖かったのにと不思議です。その頂点が、坂口安吾の『桜の森の満開の下』を読み終わった時。あれは怖かった。途中でなんとなく予想できたので、やめればよかった。でも、どこかしら怖いもの見たさ半分、結果がわからずにモヤモヤしているのはイヤだ半分で、読んでしまった。かなり後悔しましたけれども。

物心つく前なんて、「お墓」とか、「死者」とかもわからなくて、連れられていくままに霊園での花見なんてしていましたけれども、それがなんとなくわかるようになった頃、「花見」にどうして墓地へ来るのだろう(「花見」には食事や賑わいがつきものですから)と思うようになって、そこで桜のいろいろな話を聞き始め、桜に対する「畏怖」が起こった。それが不気味さにつながり、「花見」が怖くなった…。特に、夜見る桜はきれいを通り越した魔物めいたものが感じられたからでしょう。

さて、学校です。

昨日は「補講」中、いろいろなことがありました。一つ、卒業生の家族が来たこと。彼は自分でも言っていましたが、「もう二十年になる」。初期の真面目な学生のうちの一人。

彼らの国の事情とかもあまりわからなかった頃で、出過ぎた注意をしたりしていたのですが、それも過ぎ去ったこととして、子供連れで何度か来てくれています。上のお嬢さんはもう今年から高校生になるとか。しっかりした子で、小さい時から変わっていなかったですね。そして二つ下の弟君。彼も相変わらずで「我が道を行く」。まだ中学生ですから仕方が無いか。

で、休み時間に、卒業生二人と四方山話をしたあと、下のスリランカの学生が二人いるからと学生達と話してもらうべく、家族四人を下の教室に連れて行きます。

留学生とは言いながら、来てしまってから、どうしたらいいか迷う人が多いのです。特に大卒者であると、迷うようですね。来日直後は、勉強に、アルバイトにと忙しくそれどころではないのですが、半年が過ぎ、日本での生活に慣れた頃から、どうしようとなるようです。例えば、ただ車が好きで、「専門学校へ行って技術を身につける」だけでは収まらない自分がある。とはいえ、日本語においても、その他の知識においても、日本でやっていけるかというと、それは心許ない。じゃあ、どうすればいいのか…となるらしい。

高卒者であれば、車が好きだから、専門学校に行って…と簡単に決められるものを…。

その、大人同士の話を、日本で生まれ育った子供たちも聞いている。勿論、母国語で話されてしまうと、私たち同様、…わからない…のでしょうが、親やこの留学生たちの言葉に時折日本語が混じるものですから、おそらく類推しながら聞くともなく聞いている。こんなのが案外記憶に残るもので、時折、私らを見やり、ニヤリとしていたりする。

家族が帰った後、今度は(四月生用)布団十組が届き、一階の教室に置く作業を、「補講」中の学生たちに手伝ってもらい、やりました。男子二人が、さっと窓を開け、そこから布団を次々に受け取り、教師に言われたとおりに、女子二人が机や椅子の上に置いていく。ところが一人、うろうろしている男子がいましたね。状況が飲み込めないらしく、自分は何をしたらいいのかわからない状態。

この人は勉強ばかりしてきたねという感じで、こういう作業にいかにも経験が無く、完全に手持ち無沙汰…考えれば、やるべきことが見えてくるはずなのですが、状況が全く掴めないし、自分が見えないのです。かといって、知らん顔ができるような図太さはない。オロオロしていました。

で、作業が終わってから、「国(の学校)でも、したことがないでしょう。」とからかうと、隣にいた同国から来た女子。「違う。やったことがある!」。かなり年の差はあるのに、もう正体を見抜かれていますね。すると、中国人男子が助け船を出す。○○さんは本当に面白い。

「補講」中の男子三人、助け合っているのがよくわかる。

例年、スリランカ人男子や中国人男子は、こういう作業の時、さっと手伝えるものなのですが、最近の中国人男子は手伝おうと思っても、戸惑ってどうしていいかわからないと言う人が少なくはない。多分、一人っ子でいつも誰かがやってくれるているので、かつてのように手際よくサッサッという人はあまりいない。

スリランカ人は変わりませんね。数人いれば、誰かがリーダーになり、協同で、あっという間にやってのけるというのは同じです。で、この中国人男子、自分よりも数段トロいネパール人男子を見て、いかにも嬉しそう。○○さんはとても面白いですねと、彼がトロいことが嬉しくてたまらぬよう。安心できるのでしょう。トロいだけで、勉強はできるし、人柄もいいので。

と言うわけで、授業は二度中断しましたが、やるべきところは終えられました。それどころか、いろいろあって、それとは別に面白い一日となりました。

日々是好日
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「補講」も三回が過ぎました。今日で四回目です、慣れたかな。

2024-03-25 08:01:00 | 日本語学校

小雨。

朝、うん、暖かい。で、歩いていると、ちょうど良い感じだし…。学校に着いても、これなら、暖房はいるまいということで、そのままにしていると、だんだんブルブルッとくるということになってきた。やはり、まだまだ「花寒」のころですものね。もっとも、「サクラ」は足踏みをして、なかなか微笑んではくれないようですが。

さて、学校です。

「Aクラス」(卒業式が終わったので)に上がってきた「七月生」と「十月生」のために、2週間ほど「補講」を組んでいるのですが、ある意味、試みでもあるのです。

「十月生」などは「初級」を、一応、終えたとはいえ、まだ来日して半年に過ぎません。この時期は、学ぶ上で、一ヶ月違いでもかなりの差が出てくるはず。真面目にやっていなかった「四月生」と一緒というのならまだわかるのでしょうけれども、きちんと勉強して、昨12月に「N3」に合格している人達と一緒というわけですから、ある程度の能力はあっても、最初はかなりきついであろうと思います。

もっとも、言語における、「素質」と「頑張り」を計算に入れて上げているのですから、最初のうちは無理が出るのは承知の上で、「頑張れ」と言うしかないのです。「四月生」であろうと、十月生であろうと、来年の3月に卒業しなければならないというのは同じですから。ただ、この無理も、頑張っているうちに、だんだん均されていくはずで、苦しいのは最初のうちだけ。とはいえ、頑張れない人には、ちときついかも。…まあ、そう言う人は、「頑張らなければついて行けない」というのさえ、わからないかもしれません。なぜか、自分はできると思い込むことができる人が、時々いるのです。

「初級」の頃は、「ヒアリング」が良くて、機転の利く人が「できる」と見られがち。ただ「中級」以降は、日常的に使われているような言葉とはどんどん距離ができてきて、「文章」を聞くのではなくて、読まなければならなくなりますから、ある程度の「読解力」も必要となってくる。

もちろん、皆、平生、無意識のうちにわかって使っているものなのですが、いざ「指示語」の指すものを聞いていったりしますと、いろいろな答えが出てくるのです。極端な人では、その段落の最初から、「指示語」の前までを読み上げたりする。多分、そうやって読んでいるうちに、先生が「そう、そこです」なんて言っていたのですかね、彼らの国では。あるいは読み上げることができるというのが、「できる人」と見なされていたのかもしれません。

最初の頃は、延々と読むものですから、思わず、「どこまで読みますか」なんて言ったものですが。もちろん、次は「その中のどれですか」と随分穏やかに問いかけましたけれども。

ただ単に「指示語」の後方、動詞等を見ていなかったから、間違えているだけの人もいますから、そういう人には、そこを教えていけばどうにかなる。けれども、それでも戸惑っている人はいます。その短い文章中に書かれている登場人物を片っ端から上げていき、「当たった」で満足している人もいれば、誰かが答えると、その発言に覆い被さるような声で同じことを言う人もいる。それも、どう言われようが、それを繰り返してしまうのですから、もうこれは母国で習い性となっているとしか考えられないのです。が、本人はなんとも思っていない。

彼らの国での学校の様子が窺い知れて、ある意味、面白い。さて、こういう人達をどうやるかというのが、こちらの次の課題となるのですが、なかなか変わりませんね。まず、変わらなければならないとは思っていないのですから、変わるわけがない。

まあ、この「Aクラス」に上がってきて、真面目にやっている四人は、そういう問題がないので、楽ですね。教えれば、素直に受け入れてくれるようで、「学び」の上では、素直さが一番というのを実証しているような感じかしらん。

さて、それも今週いっぱいで終わり。

「時間がある時は、学校に来て、勉強してもいいですよ」と言っておいた他の学生達、来そうにありませんね。

日々是好日

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3月19日から3月29日まで、「4月生クラス」に上げた「七月生」と「10月生」の補講をする予定です。

2024-03-22 08:16:01 | 日本語学校
晴れ。

晴れて青空が見え、その上、乾燥しているので、富士山が見える機会も多い…というのが「冬」。で、「春」は、霞がかかっていたり、雨がちである…と言う気がしていたのですが。

こう、晴れが続いて、寒いとまだまだ冬の感が抜けきらない…。まあ、来週くらいから暖かさが加速されそうだとのことですが。

今日なども、「手袋が要ったね」と、かじかむ手を慰めながらやってきました。もっとも、昨日、空き地で「ツクシ」を探していると、めっけものが一つ。「ホトケノザ」があちこちで角を伸ばしていたのです。もっとも、この空き地、私の肩くらいの高さの所にあるので、見られるのは、道に面している、ごく部分だけ。向こうの方に紫っぽいのが見えたのですが、正体はちとわからない。もしかしたら、あれは「ジゴクノカマノフタ」かもしれません。

草花の名前というのには、時々、ガーンと来させられるようなものがあります。これもそう。表向きの名前はスウッと消えてしまっていても、「地獄」がついていれば、なかなか忘れられるものではありません。しかも「釜の蓋」ですものね。

さて、学校です。

昨日、「補講」の学生に、「一昨日、来た?」と聞いてみると、いましたね、二人。そのうちの一人は「『赤の日』だと知っていたけれども、『明日は休み』と先生が言わなかったから(来た)」…申し訳ない。言うべきであった。

実は「春休み」に入る前、「卒業式」の前でしたが、この旧「Cクラス」で、この日のことが話題になっていたのです。コソコソ話していた二人に、「どうした?」。「次の、あの『赤の日』はどうして休みなのか」。で、「皆さん、『赤の日』が休みだと言うことを知っていますね」「はーい」。それで、それなりにしていたのですが。

「補講」は、それとは別だと思ったのでしょう。ホント、悪かった。と言いましても、自転車で五分ほどの距離、歩いても男子の足では、15分とはかかりますまい。悪いことに、つい、ヘラヘラしてしまい「運動になりましたね」。向こうは苦笑していましたが。ほんと、悪かった。

で、「補講」です。

「補講」とは言え、二日目は、楽ですね。何事によらず、最初は、彼我ともに、様子を見るもの。それも1日目で終わり、二日目からは、こういうものであるとわかった上で、授業を受けるのですから、簡単に流していける。

「十月生」がこのクラスに入ったのは、3月4日から。一人はその前、三週ほど週三で参加していましたし、もう一人は、5回ほど参加できていた…にしても、前の部分が欠けているのは事実。しかも、『みんなの日本語』の復習をする時間もなく、すぐに「四月生クラス」に上げたので、復習しておかねばならなかったことがかなりある。「七月生」は『みんなの日本語』を復習する時間がかなりあったので、本来ならば、それほど「N4」レベルの復習は必要ないのだろうけれども、まあ、忘れるのが人の常ですから、復習なんてのは、しすぎて困ることはない。

この「補講」では、「N4」までの復習としては、主に、四つ考えていました。後は「読解」の授業をしながら見ていきます。

一つ、代表的な動詞を用いて、「元の動詞、可能、受け身、尊敬、使役、使役受け身」を読み上げ(慣れた段階で別の動詞に変えるつもりです…もっとも、三月いっぱいだけなので、いくつくらいできるかはだ不明ですが)。二つ、「ようだ、そうだ」のまとめを図に書いたものを読み上げる。三つ、敬語は、(尊敬語)「あなた~か」と(謙譲語)「私」を使って、これも読んでいく(覚えられずとも、読むことで思い出せる部分はあると思います)。

四つ、「N5」「N4」漢字、だいたい三日で一巡するくらいを、「読み」を隠して読んでいき、「N4」までの復習とする。「10月生」は、『みんなの日本語』が終わってすぐこのクラスに入れたので、「N4」までの復習の時間が取れていなかったし、漢字も速く進めていったので、週一のテストでは、追いつけなかった。故に、中国人学生は、先にどんどんやらせていたので、いまは「N2漢字」に取り込めているけれども、「非漢字圏」のネパールの学生がまだ追いつけていないのです。「七月生」とはいえ、スリランカの学生は、漢字が弱いので、ちょうどいいと言えるでしょう。

次に、「N3文法」「N2文法」。これは一課から。「N3漢字」も一課から復習を兼ねてやります(「十月生」が『みんなの日本語・50課』が終わったのが3月1日。翌日からすぐにこのクラスに入れたのですが、「N3」の「文法・漢字」共に、初めの頃のが欠けているので、その補充が必要なのです。「七月生」は、既に1月16日から参加していたけれども、「漢字」も「文法」も、やり方次第では、何回やってもいいのです。

ここまでで、大体、10時45分。で、15分休憩で、11時から12時半まで『中級から学ぶ』を一日一課の割で進めていく予定。

日々是好日
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「春分」は過ぎたというのに…。「暑さ寒さも彼岸まで」なんて誰が言った…。寒い…。

2024-03-21 08:31:27 | 日本語学校
晴れ。

どこまでも青空が広がっています。風はかなり強く、外にいると体温までも風に吹き飛ばされていくようで、寒い…。「春分」が過ぎたというのに、冬に逆戻りかよ…。

道行く人も皆、厚手のコート、手袋、マフラーで身を固め、うつむきがちに歩いている…。「暑さ寒さも彼岸まで」なんて誰が言った…。春先は本当に油断できません。

とは言いながら、今朝、「スノードロップ」の花を見かけました。そばに「シバザクラ」の小花もチョイチョイと咲いていて…。おいおい「サクラ」も咲くのでしょうが、まだまだ綻んでいないようです、近くの「サクラ」の蕾は。

この頃になると、どこそこの局の「(サクラの)開花宣言」が当たったとかが話題になるのですが、これはもう、賭けですね。

さて、学校です。

「Cクラス」の補講中の学生達、昨日は来なかったでしょうね…一人だけ、ぼんやりした人がいるので、ちょっと気になります。

「補講」と言いましても、いろいろな理由がありまして、一番多いのは、途中に入ってきた人に対するもの。特に留学生は、特に大卒者には、これをやる場合が多い。

もちろん、上のクラスに入れても「無理かな」と思われる場合もあります。結局は本人のやる気度次第なのです。大卒者の場合、「N5」合格という縛りがないので、「N5」か「N4」に合格してから来る人達(高卒者など)と、一緒に勉強しても、本人に自覚がないと追いつけないということがよくあります。

少なくとも「N5」に合格してから来ている人は、「ひらがな」「カタカナ」は書けますし、「漢字」に関しても多少の知識はある。それに「数」やそれに伴う「助数詞」「曜日」などは、一応、覚えてから来ている…。だいたい勉強しておかなければ、合格できませんから。

それに比べて、大卒者の中には、日本に来てしまえば、目的の半分は達成したと考え、学校での勉強には、それほど身を入れてやらない人もいないわけではない。そういう人には、こういうことを覚えるという「努力」は無駄なことと映るようで、それを毎日(初めの頃は)繰り返させられる理由もわからない。「ひらがな」まではどうにかテキトーに覚えても、「早く覚えなければ」という気持ちがなければ、次の「カタカナ」が入れられると、途端にごちゃごちゃになってしまう…。覚えていないから、読めないし、書けない。口頭練習にしても、聞いて繰り返しているだけで、スラスラと読めないから、意味のチェックができない。宿題にしても、見て写しているだけだから、効率は良くない。

高卒者は、少なくとも、「N5」は合格してから来ていますから、『みんなの日本語(1)』には、それほど時間はかけられません。この学校にいられる時間(最長二年)は無駄にできませんから、『(Ⅰ)』の方で節約できた時間を、『(Ⅱ)』の方で使うということになる。ということは、『(Ⅰ)』では、それほど勉強する気のない人のためにタラタラと授業が進められないので、ボケッとしている間に、いつの間にか、わけがわからないこともなりかねない。

普通、大卒者であったら、こういうやり方であっても、『(Ⅱ)』に行くまでに追いつくものなのです、きちんと言われたとおりに勉強していれば。ところが、そうでなければ、たいていの場合、『(Ⅱ)』に入っているというのに、まだ「文字」で、オタオタしてしまうということになる。

もちろん、器用な人はいます。「漢字テスト」の時だけは、合格できるという人。とはいえ、それだけのことですね。「テスト」があるから、覚えたというだけのことで、「覚えた」が持続できないのです。最初は、驚いたものですが、案外、そういう人が、一人、二人だけではなく出てくると、「まあ、そういう、無駄な努力をする人もいる」で一括りできてしまうので、却って、注意してしまう。

こういう人には、手を変え品を変え、「漢字を覚えておかねば、ものが読めない。ものが読めなければ、日本の暮らしで困ることが少なからず出てくる。仕事も大した仕事は任してもらえなくなる」などとやっても、身につまされることがないので、しっくりこないのでしょう。徒労になる場合が多いのです。イメージが湧かないのでしょうね。

結局は、就職して初めてわかることになるのかもしれません。もっとも、口を酸っぱくして言いつづけるのも、全くの無駄ではないようで、途中で気づいてくれることだってありますから。日本にいると言うことは、日本社会の中にいるということですから、アルバイトで気がついたとか、日本人との付き合いでわかったとかいうこともありますし。

「学べるだけの能力はあるのにな」と残念な気持ちになることもあるのですが、自覚がなければ、難しいですね。ここは日本で、環境としては、一番いいと思うのですけれども。

日々是好日

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昨日は「卒業式」でした。発見、「茶話会」の料理が捌けない…どうして? 例年、注意しておかねば、あっという間に空っぽになってしまうものなのに。

2024-03-19 08:19:52 | 日本語学校
曇り。

曇っていても、薄日は差し込んで来ます。少し明るくなりました。学校へ来る途中、例の「サクラ」の木が、黒い蔭のような姿で立っているのに、少々、戸惑ってしまいました。

どちらかというと遅咲き。とはいえ、もうそろそろ幹や枝もかすかにでもピンク色を感じさせても良さそうなものを。まだまだ華やかさをまといそうな雰囲気は一切ありません。

温暖化が進んだとはいえ、入学式の頃の「サクラ」が、卒業式の頃の「サクラ」になるには、不十分なのでしょう。

今朝も風が強く、しかも北風…。日曜日の、「これは四月かいな」という気温とはかなりの隔たりがある。昨日の北風はすごかった。卒業式当日なのに、近くの公園では砂塵が舞っていた。幟も電線並に、ビュン、ビュユンと音を立て、旗も千切れんばかりにはためいていた。

で、学校です。

昨日は「二十回」目の「卒業式」でした。この人達(卒業生)まででしょうか、コロナの影響をかなり受けていたのは。中には二年待ってやっと来日できた学生もいました。よくぞ頑張ってくれた。このような状況で、無事卒業を迎えられたというだけでも、やったねと思わず肩をたたいてやりたくなってしまう。中にはそれほど真面目に日本語を勉強したとは言えないような学生もいたのですが、みんな、いかにもうれしそうに参加してくれました。

式は滞りなく終わったのですが、さあ、「茶話会」でと言うところで、今までとは違う光景に出くわして、はっ。料理が捌けない…。

ケーキでしょ。唐揚げでしょ。寿司でしょ。サンドイッチでしょ…。「茶話会」が終わってもかなり残っていた…。

例年ですと、あっという間に平らげられてしまい、先に、在校生に「卒業生が主役だからね…先に食べてしまっちゃだめです」と釘を刺しておかねばならぬくらいだったのに…。

卒業生一名は病気で休み。在校生一人はアルバイト先との連絡がうまくいっていなくて、参加できず、結局参加者は28人だったのですが。

まず、卒業生一名と在校生四名は「ラマダン」ということで、水分も食事も摂ることができずに、空のコップで乾杯…とならざるを得なかった。これは、まあ、しょうがない。彼らの宗教の問題ですから。…かといって、「卒業式」を延期するわけにはいかないのです。来年は「この時期にラマダンになったらいやだなあ」等と不謹慎なことをチラと考えてしまいました。

それから、甘いものがだめな学生が…多かったのにもびっくり。三、四名の男子が「甘いものがだめだ」と言い。ケーキを食べようとしない。まあ、それは好き嫌いの問題ですから、これもしょうがない。好きな人が食べればいいや…と思っていると、ネパールの女子がケーキに手を出さない。

最初は遠慮しているだけなのかと思っていたのですが、どうも、そうではなく、ケーキなるものに、慣れていない。ケーキというか生クリームかチョコレート、あるいはその土台のスポンジかに慣れていない…。で、胡乱なものを見るような目つきで見ている。一応、お祝い事だからと、渡したことは渡したけれども、そのまま…皿に入れられたまま。

それから和食が苦手のよう…どうも、彼ら、来日後も全く日本料理を食べていないよう。訊くとおにぎりは食べたことがある…けれども、あとは、ない。だめ…らしい。

これでは日本での暮らしは大変だろうなあと思ってしまいました。毎日ですからね。お金もかかるし、手間もかかるでしょうし。

スリランカの学生も、和食が初めてという人が大半なのですが、ネパールの学生とはかなり様子が違っていて、「食べてみよう」ができるのです。最初の頃は、「おなかをこわした」と言って、休む理由のいくつかは、「刺身や寿司を(初めて)食べた」あるいは「豚肉などの肉を(初めて)食べた」なのですが、一年が過ぎる頃には、だいたい「日本の料理はおいしい」と、日本料理なら何でも来いになるようなのですが。

どうもネパールから来た学生は、国で食べ慣れたもの以外は、口にしないようですね。そういえば、ネパールに行った時、「コーヒーとのケーキセット」なるものを頼んだことがあるのですが、「えっ。う~ん、これが」と、ちょっと想像できなかったようなものが出たことがありました。ちょっと食べる気にはなれませんでしたね。これも口になれていないからなのでしょう。「ケーキ」と言わずに、ネパール料理の「なになに」といっていれば、そういうものかと思って食べたのかもしれませんが。

まあ、しょうがないですね。彼らも少しずつ慣れていくしかないでしょう、日本で暮らしていくのなら。

「卒業式」とは言いながら、学生達の別の面が発見できた一日でした。

日々是好日
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今日は「卒業式」。途中で就職したり、結婚したり、いろいろな人が出た「期」でしたが、最後まで頑張って勉強を続けてきた人、おめでとう。

2024-03-18 08:31:00 | 日本語学校

晴れ。風強し。

春先は風が強いものですが、今日もそうですね。公園の砂というか、細かい土が舞い上がって激しい風に押し流されてくる…。足が痛くない時にはちょっと遠回りでも、砂がかからないところから学校へと行っていたものですが、今は、少しでも歩く距離を短くしようと、多少の「砂かぶり」になっても…というわけで、まあ三角形の、こちら側の2辺を通ることにして来ました。下を向いて、目が開けられない…変な「砂かぶり」さんでしたね。

さて、学校です。

今日は「卒業式」。頑張った人達が、一人また一人と巣立っていく日です。彼らは在校生達に何を語ってくれるでしょうか。

おそらく、「学校は大変でした」とか、「日本の生活は大変でした」でしょうね。で、何が大変だったかと言いますと、おそらく来日直後の生活だったでしょう。ゴミ出しもそう、アルバイト探しもそう。(日本では)テキトーも通じないし、親の威光も通じない…。

「アルバイト探し」は、特に大変だったと思います。「コロナ禍」前は、同じ(現地の)学校から来ていた先輩もいましたし、同国人や同じ国の同じ地方から来ている人達もいて、彼らが後から来た人達にアルバイトの紹介や生活の指導などもしてくれていましたから。

こちらの言わんとすることが、この先輩達を通して話せましたから、困ると言うことが、あまりありませんでした。

何か注意を促さねばならないようなことが起こった場合、同国の先輩連の中から、ヒアリングや会話などが達者な人を選び、「はい。○○さんと、△△さんと、◎さんと、□□さんと…(通訳してください)」というふうに、手伝ってもらっていました。…それが切れていたわけですから。

この「コロナ禍」の最中は、在日の人達が大半で、留学生達が来ていた国とは全く異なった国の人達が多く、留学生達に対するとは、(日本語を教えるという面でも)別のやり方が必要になりました。ある意味、日本語だけに特化してやれば良かったのです。

留学生は違います。日本語だけやればいいというものではなく、日本で生きていく上で、他の知識も必要になってきます。

それに、留学生は二年から一年三ヶ月とその間は、特別なことがない限り、勉強を続けられますから、こちら側としても、計画が立てやすいのです。在日の人達は都合によっては、短い時は一ヶ月、あるいは三ヶ月ほどで止めることもありますから、「今、現在」が大切になり、勢い、型どおりと言うことになってしまいます。

その上、日本語だけでなく、日本についても、知識や理解のない人が多く、いちいちこちらがそれに反応していては、「日本語」を教えていくことができませんから、もうそれは「聞かぬこと」として素通りしていくしかありません。実際、彼らの夫や妻が日本語ができるとか、日本で会社勤めをしているとかいう場合も少なくないので、後は彼ら自身の問題であると、割り切ってしまわなければ、こちらが疲れてしまいます。

つまり、一ヶ月後にできればいいとか、もう少し進んだ頃に説明していった方がいいだろうとかいう考え方ができにくいのです。

ところが、「コロナ禍」に人々が慣れ、留学生が戻ってきますと、いつも通りの学校も戻ってきて、留学生達が多く来ていた頃のスケジュールでの授業ができるようになって来ました。その「一期生」ですね。今年卒業する人達は。

来日直後は大変だったでしょうが、「郷に入っては郷に従う」をやっているうちに、「住めば都」ともなるようで、「ずっと日本にいたい」とか、「日本は暮らしやすい、ここを出ることは考えていない」とかいう学生が、チラホラ出てきているようです。

卒業生の中には、国が内戦状態にある人がいたり、政治家がというか、国自体が「朝令暮改」を繰り返し、人々の生活が脅かされている国もあります。

日本の政治においても、様々な問題が現在噴出中であり、日本人にとっては「堪らん」状態は続いているのですが、おそらく彼らから見れば、まだマシなのでしょう。これは比較してという意味で。

それに、外国人がアルバイトで日本人と同じだけの給料がもらえるということも、多分、安定した生活ができるという意味で励みにはなるでしょう。将来を考えることができるという意味ですが。

まだ女性でも夜遅く一人で出歩けるし、何よりも「したいことができそうだ」、あるいは「頑張れば、それなりの生活ができそうだ」と思えるからでしょう。これも、彼らが日本語力が、「N2」くらいか、人によっては限りなく「N1」に近づいているからでしょう。日本語がわからなければ、異国でどうしていいかわからないでしょうから。

ともかくも、卒業までにこぎ着けることができた皆さん、おめでとう。この二年頑張れたこと自体がすごいことです。これからは、その日本語力を活かして、やりたいことができるように、学んでいってください。

日々是好日

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「スイセン」の花は正月飾りの一つと思っていたけれども…。今、満開です。

2024-03-15 07:42:50 | 日本語学校

晴れ。

今朝、突然、真っ白な「スイセン」の花が目に飛び込んできてびっくり。なんて言うことはないのです、毎年、その場所に咲いていた「スイセン」だったのですが。

手術をしてからは、歩く時はほとんど地面との格闘で、目を上げるとしても、前に人がいるかどうかの確認くらいのもの。と言うわけで、毎年のことながら、今年も、満開になるまで気づいていなかった。なにせ、道には、わずかでも、傾いていたり、箇所によっては、凸凹やらがあるので、注意しいしい歩かざるをえない。

公園へと至る道の、脇に立っているマンションの道沿いのお庭には、毎年「スイセン」の花がワンサカ咲いていて、それをいつも楽しみにしていたのですが、どうしてでしょうね、ずっと咲いていたはずなのに、今日に限って、ワッとなった。

「スイセン」というと、私には、冬の花のイメージが強いのですが、こちらでは「サクラ」と同時期に咲くのかな。子供の頃の庭にも、白やら黄色やら、地味なものやら、ラッパ型のものやらが咲いていたものですが、よく、どこそこの岬のなだらかな崖には「スイセン」の群落があるなどという噂が流れると、「じゃあ、見に行こう」となり、町内会で小旅行があったりしたものでした。今のように「花」は金になるというようなものではなく、自然を楽しむと言った風情だったのでしょう。

「スイセン」が咲くと、切り花にして家の中に飾ったり、小学生の頃は、順繰りに学校に持っていったりしていました。どこの家にも咲いているような花でしたから。ありふれた花であっても、ないとすぐ探してしまうのは、洋物の派手な花が増えた故でしょうか。見かけると、思わず深呼吸して香気を味わってしまいます。

さて、学校です。

今年の春休みに関して言うと、学生達は、いたって静か。例年、騒ぐものなのですが。そういえば「冬休み」終了後すぐに、誰かが聞いていたような気もする…。「Eクラス(十月生)」の学生達にしても、一度「長期休み」を経験してしまっているので、休みが長いと「明けてからが大変だ」がわかっているからかもしれません。どうもそれほど(休みを)楽しみにしているふうには見えない。

「Cクラス(四月生)」に上がってきた学生達(「七月生クラス」から三名、「十月生クラス」から二名)にしても、三月いっぱいは「補講」ということで、それが頭にあるからか、いつから休みと聞きに来たのは、元から「Cクラス」にいた「四月生」だけ。そりゃあ、彼らは余裕があるでしょう。まだ「N4」に毛が生えたくらいの人達と、12月に既に「N3」に合格している自分たちが一緒に授業を受けているのですから。

とはいえ、ちょうどいい復習にはなるようです。「N3」の漢字やら、文法やらをやっている時に、こっそりと勉強しているのが一人いるようですから。

多分、合格はしたものの、慌てて勉強したから、不安な部分もある。復習にちょうどいいと思っているのかもしれません。今「N3」の勉強を始めている人達にとっても、「N2」の文法を一緒に聞いているわけですから、これを予習と考えれば、きちんとやり始めた時の助けとなる。もちろん、それができるものと考えて、特に「十月生」の二人、上げているわけ(中国人はいいとして、もう一人はネパール人)ですから。

日々是好日

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全体でする「作業」について。イメージがないから、動けない…では、イメージを作らせていくためには…まずは経験。

2024-03-14 08:18:57 | 日本語学校
晴れ。

今週は、今日、明日、土・日と暖かくなり、一気に「サクラ」の開花が進むかなと思っていると、またしても、来週、また寒くなりそうなので、「開花」の足踏み状態が続くかしらん。とはいえ、学校の玄関のカギを差し込む時に感じる、焦るような暗さも影を潜め、まずは「光」から、季節の変化は始まっていると…言えるかな。

さて、学校です。

先日の「ひな祭り」、皆で「男雛女雛」を折り紙で作っていったのですが、その作業でのこと。ネパールの学生達の様にびっくりさせられてしまいました。ネパールからの留学生はここ何年も入れてきていましたので、今更…という感がなきにしもあらずなのですが、これまで注意して見ていなかったのかしらん。ただ「不器用だ」とだけ捉えていたのかもしれません。が、違っていたのです。「不器用」ではなく、使ったことがなかっただけだったのです。

「紙を折る」…(経験が)ない。はさみを使う」…(経験が)ない。「セロテープ」を切って、貼る…(使った経験が)ない。見よう見まねでやるわけですから、作業が遅くなるのも当然のことだったのです。

最初は、どうしていいかわからないから、キョロキョロ、オドオド、ドキドキしている人が、あっちにもこっちにもいた。教師がやり方を説明しているのですが、そういうイメージが全くないので、どう理解していいのかわからなかったのでしょう。

もっとも、3,4人は、作業を進めているうちに、コツがわかったらしく、それなりにできるようになっていった…のですが、一人だけ、最後まで、折り紙を手に、固まっている人がいました。見るに見かねて、左右の学生が手伝ってやっていましたが、あまり人にやってもらっていると、その人も自分の作業が遅れがちになってしまうし、だいたい本人のためにならない。

ということで、時折、(こちらが)「それくらいは、自分でやりなさい」と言ったり、「自分でやらせなさい」と手伝っている学生に言ったりしたのですが、そうなると、一人だけが全然進まないと言うことになってしまう。紙を手に、茫然としてしまうのです。終わりの方ではもう黙認でしたね。これからは、7月に、「七夕」行事もあることだし、まあ、少しずつ慣れていけばいいかなと思うことにして。

ただ、考えさせられたことがいくつかありましたね。こんな簡単なことであっても、作業は作業。「作業」というのに慣れていない…ということは、仕事とまでは言いませんが、日常生活においても、つまり、日々の暮らしの手順も見えていないのではないか。

もちろん、人によって、それぞれ、得手不得手なるものがあるのも事実。自分にも、「こういうことは下手」と自負(?)して、他の人に任せっきりということもあるのですが、彼らは、その「前段階」の所で詰まっている…ように見える。経験がないから、動けない…。経験さえあれば、もう少し、自由に動けるのではないか。

現在は、どう動いていいかわからないから、動かない。手を出さない。わからないから何もしない。結局、皆で何かをしなければならない時に、何もせず、ただ見ているだけということになる。

皆で、準備をしたり、片付けをしたりしている時に、見ているだけでは、手持ち無沙汰になるものだから、つい、汗を流している人を尻目に、同じような者と談笑したりしてしまう。普通、日本人なら、ここで、プッツンいってしまうものなのですが、本人は、これまで、それでやってきているものですから、なんとも思っていない。日本社会じゃ、通用しないよと言いたくなる。実際によく言ってきました。

見ていると、働く(作業する)者と自分とを別と考えているようなフシさえ感じられる。留学させられるということは、彼らの国では、一定の「資産」なり、「階層」者であるということなのかもしれません。

ということで、今、来週の「卒業式」の準備のことを考えています。例年、在校生が式の準備をしているのですが、これまでは人数が多いこともあり、テキパキと動ける人達に、大部分を頼んでいました(教室が狭い割に、人が多いので)。その方が時間も短くてすみますし、こちらも苛つかずに済むからです。が、多少時間がかかっても、全員に、それなりの役割を与え、させた方がいいのではないかと考えています。自分の椅子をたたんだり、並べたりは、これまでもさせていたのですが、それ以上の作業は、見ていると、動く人は決まっていました。

動けるのは、慣れていて、手順がすぐに呑み込める者、自分なりに考えて動ける者ですね。ぼうっと突っ立って他の人の邪魔になっている人は、出来ないのではなく、どうしていいかわからないということなのでしょう。

まずは、作業を呑み込ませ、どうすればいいかを理解させて、動けるようにさせていかなければなりません。

まあ、文句を言っているように感じられるかもしれませんが、皆、根はいい人達なのです。手伝ってと言えば、すぐに手伝ってくれます。一対一だったら、いいのですが、ただ、大勢の中での自分の立ち位置が呑み込めないがゆえに、どこでどう動いたらいいかわからない。

これまでそういうことをしたことがない人達を動かすのですから、時間はかかるでしょうが、これも教育の一環と思えば、たいしたことはありません。最初に、時間が、少し余分にかかるだけのこと。特に女子学生は、国でそういうことをしたことがないように見えますから、一層、やっておく必要があるのでしょう。

日々是好日

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「ラマダン」が始まりました。が、授業時間は守ってください。

2024-03-12 08:44:35 | 日本語学校
曇り。

今朝は、風もなく、気温も八度と暖かい。もっとも、学校に着いて少し経つと、やはり、まだ暖房が必要となりましたが。とはいえ、じきに雨が降り出すとのこと。今日の雨は、3時頃から大降りになるそうで、その上、風も強くなるとのこと。帰りがちょっと不安です。

4月生の寮探しは、一人分がどうも困る。3,4ヶ月で、親戚と一緒に暮らすからそれまでは頼むと言われても、ちょっと難しい。先に自分たちで借りて、住まわせておけばいいと思うのですが、それもだめだと言う。卒業生の頼みだから、聞いてやっているのでしょうが、その人が出たあとはどうするのでしょうね。

昨日、探せたと言う連絡が入って、スタッフが見に行きました。きれいで、とても良かったけれども、学校まで自転車で20分ほどかかりそうなのが難点で、没に。大雨になったら、大変ですものね。残念でしたけれども。

学校の「ジンチョウゲ」の花には、だいぶ茶色が混ざってきました。もう終わりかな。次の季節の花々にバトンタッチして、来年まで一休みする頃かな。

さて、学校です。

「ラマダン」が始まって、「早く帰りたい」という人や、「疲れた」という人がチョイチョイ出てきています。…久しぶりだなあ、こういうのは。

これまで、そういうので、早く帰るというのは、留学生に関してはありませんでした。

ただ、この学校ができて初め頃でしたか、日本で職探しをするという「IT関係」のバングラデシュ人が日本在住の同国人に連れられて、一クラス分、授業を受けに来ていたことがありました。日本に来て、ここで職探しをしようというのに、勉強はテキトー、しかも全く日本に慣れようとしない。それどころか、自分たちのやり方を押し通そうとする。最後にはこちらの方で「ぶち切れ」て、「勉強しないのなら、来る必要はない!」。ちっとは応えたかと思いきや、知らん顔です。言葉はわからなくとも、表情で、こちらが起こっているくらいはわかったと思うのですが、日本人の女がなんか喚いとるくらいの感じだったのでしょうね、それが見てとれました。

約束の期間が終わると、「もう勉強は終わった。友達だから、仲良くしよう」と言う。「とんでもない、学校に来ていると言うのに、座っていただけ。行けと言われたから来ているだけのことだったのだろう。学ぶつもりがないのに、何が勉強が終わっただ。何が友達だ。そんな君たちとは、もう関係ない」。

ああいう国からの人は、もう真っ平だと、その時は思ったのですが、留学生として来ていたバングラデシュ人達は違っていましたね。よく勉強するし、日本に馴染もうとしていた。

それに、同時期に、日本企業が連れてきていた、同じく「IT関係」のバングラデシュ人も、三人とも良かった。よく勉強するし(「N3」に合格しないと帰国と言われていたようです)、日本を知ろうとしていたし、日本人がいかにも好感を持ちそうな人達でした。柔軟性があったのでしょう。やはり日本企業が目をつけるだけのことはある。ただ単に、「IT」ができるだけでは、異国で職を得るのは難しい。だいたい、外国人になれている私たちに「もう、イヤだ」と思わせるような人達ですから、日本人とうまくやっていけるとは思えません。男だから、ITができるからと、自分の国でのように威張っていたりしたら、誰も相手にしてくれないでしょう。

もちろん、これはどの国であっても、同じことです。社会の中にいなければ、人は自分を発揮できないものですから。

で、話は戻ります。「ラマダン」のことです。

それが条件の一つとしてあったり、公教育であったなら、話は別でしょうが、こういう学校で、それぞれの宗教に目配りして、祭りを重んじるというのは、なかなかに難しいこと。その期間、30分ほども毎日早く帰ったりすれば、それだけ(勉強が)遅れてしまいます。一人だけ特別に補講をするなんてのは、土台、無理な話。小さな学校ですから。

留学生は期間の制限があるのです。最長で二年、七月生であったり、十月生であったり、一月生であったりすれば、それだけ短くなります。国で勉強したと言っても、きちんとできて来た人は、ほとんどいません(国にも、よりますが。だいたい日本語を学べる所がほとんどないという地域だってあるのです)。「ひらがな」だって、線が多すぎたり、点が三つあったり。こっちもギョッとさせられるし、向こうだって、「どうして?教えてもらった字はこうだったのに」と何が何だかわからない…でしょうね。

それで、来てすぐに「お祭りだから、来ない」とか、「早く帰る」であれば、もう、こちらとしても(勉強の)責任は持てません。こちらとしても、自分の責任が持てない状態で、クラスにいられては、辛いのです。そうなれば、本来なら、手をかけられる人達にまで、手が回らないということにもなりかねない。かといって、では、来期(4月生)と一緒に…と言うわけにもいきません。

「こういうことがわかった上で、日本に来ているのでしょう」と、きちんと授業を受けるように言ったのですが、多分、納得はできていないでしょう。以前いた、インド人学生が、「国ではそれぞれの宗教の祭りは、皆、休んでいた」と言っていましたから。その時は、「じゃあ、いつ勉強するの(休みばかりのように思われましたから)」と訊くと、訊かれること自体、意味がわからないという顔をしていました。

特に午後のクラスは大変です。さて、どうなりますことやら。

日々是好日
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「漢字」ばかりは、面白がってくれる人と、関心はないけれども、覚えようと努力してくれる人と、無駄なことをさせられていると思ってしまう人と、差がありすぎる。と

2024-03-11 08:05:25 | 日本語学校
晴れ。

「啓蟄」を過ぎると、次第に「桃の花」が咲き、「蝶」が飛び回るような季節に至る…とはいいながら、日本には悲しい記憶、覚えておかねばならぬ記録が多すぎる。今日は3月11日。

さて、学校です。

10月に来た学生達の勉学の様子を見ながら、一人、また一人、そしてもう一人と、上のクラスにつり上げていこうとしています。もちろん、小言を言わねばならぬ人もかなりいますから、あっちを見、こっちを見してやるわけで、これがなかなかに忙しい。

先週の金曜で、無事に「N4」の試験も終わり、今週から、私の授業でも、「N3」に入っていきます。まあ、「十月生」が主体のクラスですから、かなり復習も入れていかねばなりません。

復習の一つ目は、「漢字」です。放っておくと、「N3」の漢字を入れていくうちに、「N5」の漢字が押し出されてしまい、いつの間にか、きれいさっぱり消えてしまったと言うことにもなりかねませんから。まあ、自分の授業をやりながら、常にこれらの「読み合わせ」くらいはしておきませんと、読む時に、「この字は何だったっけ」というのが続いてしまいます。

もっとも、この「読み合わせ」。「N5」は(「ひらがな」を隠しての読みです)どうにかなっても、「N4」ともなると、「知らな~い」と言いそうな人が若干名と言いますか、かなりいそうですから、毎日全部はきつい。「N4」全部をやってしまうと、やってもやらなくても同じようなことになってしまうのです。ですから、「『N5』の読み合わせ」足すことの「『N4』の五文字か六文字」くらいにしておいた方がいいのです。

腹八分というけれども、この「漢字」においても、それは言えそうで、一つのクラスの中に、「この人は一文字がやっとだな」というところから、「喜んでいくつも覚えたがる人」までいるわけですから、ちょっと大変。

「暗記」は無理をさせることができても、「漢字」ばかりは無理が利かないのです。

卒業生の中にも、あまりに覚えようとしない学生がいたので(高校時代の成績はトップクラスでした)、目の前で「書け、書け」をやらせたことがあるのです。「覚えるつもりがないから、覚えられないのだ」と言って。

「金曜日」の「金」の字だったのですが、私は、彼に「百字書き」の苦行を強いるつもりだったのに、こちらの方が苦行させられたような次第。覚えるつもりのない人に「漢字」の苦行をさせるべきではない…というのが実感。双方共に何の益にもなりません。

見ていてやらせたのですが、二回はどうにか正しく書いた。ところが三回目に書いた字はというと、下の点々が内向きではなく、外向きになってしまっている。訂正させて、また書かせると、今度は屋根がどっかに向いてしまう。20回ほどでこちらの方が根負けして、「もう、どうして!」となってしまった。

向こうは向こうで、気の毒そうな顔をして私を見ている。どうやったら「覚えなければ」という気にさせられるだろうと思っても、「こういう学校じゃ無理」という結論に至ってしまう。覚えるつもりで来ていなければ(留学)、時間が足りないのです。仕事、つまり「稼ぎ」で必要にならない限り、無理なのでしょう。覚えようすれば覚えられるだけの能力があるにもかかわらず、覚えないで卒業していった人が何人もいましたから。

きっかけがないとどうにも覚えようという気になれないのです。母国でこんな「苦行」をさせられたことがない、つまり「漢字」を覚えるのは、「意味のないこと」としか考えられないのです。ひらがなで事足れりの世界ではないのですけれども。。

よほどひどい目に遇わない限り、変わらない…苦労するのになと…実際に、進学する時にも、そして卒業してからも、苦労しているのですが。

前にインド人でそういう学生がいました。変わったのは、日本でどうにもならなくなって帰国してから。母国で日本企業に入ろうと思ったら、漢字が読めなくては何もできませんからね、なにせ、留学したという経歴があれば、当然、それを求められますから。

追い詰められないことには、母国(高校、あるいは大学)での成功体験が邪魔をして、どうにかなる精神でやってしまう。

今も、どうにもならない学生が一人います。同じ「漢字テスト」を七回でやっと合格という学生が。

「文句を言うのに疲れた」と言うと、「先生、大丈夫」と答える。「そっちが大丈夫でも、こっちは大丈夫じゃない」と返すと、よくわからないけれども、何だかかわいそうという目つきでこちらを見る。はあ。

まだあと一年あります。途中で変わってくれるといいけれども、おそらく変わらないでしょうね。オートバイのエンジンを勉強したいと言うので、先に「カタカナ」の方をやっておいた方がいいのかもしれません。…こっちも苦手のようですから。

日々是好日
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「卒業文集」の作文が少しずつ集まってきました。

2024-03-07 08:10:02 | 日本語学校
曇り。

昨日の朝は寒かった…。朝、出る時に見ると、三度台。思わず、3月でこれか…2月ならまだわかるけれども。つい、皆で、気温の話になってしまう…「これで収まると思う?」「いや、また(冬将軍が)来るかも…。

で、今日は5度台…。昨日の寒さがあったので、よけいに温かく感じられたのですが、職員室でじっとしている、やはり寒い…。

さて、学校です。

「卒業文集」を書かせていくと、「日本の冬」のことを「好き」と書いた人や「ごめんだ」と書いた人がいて、へえ…。

「冬はごめんだ」というのはわかります。「常春」や「常夏」の国から来てみれば、それはそうでしょう。この寒さに縮み上がっているというのが実感でしょうね。ただ、こういう人達には、「東京湾岸の寒さ」と、たとえば、「北欧の寒さ」との差がどうもわからないらしい。

数年前、この学校に来ていた学生の中に、学生時代、北欧に半年ほど留学していた人がいました。もう、それこそ、(まあ、ちとみっともない表現ですが)、「尻に帆掛けて」退散した…らしい。

「冬」と聞くだけで怖気をふるっていました。「向こうの冬と、こちらの冬とは寒さの度合いが違うよ」と言っても、どうも納得できないらしい。いわゆる「寒いのは同じ」。彼女が我慢できる気温を超えれば、みな、同じ「寒い」になるらしい。

もっとも(気温は向こうの方が断然低いにしても)、日本には、家中を温かくするという発想がありませんから、ある意味、日本の冬の方が辛いかもしれません。

一方、「冬が好き」と書いた人に訊いてみると、「(自分の国には)冬がないから、面白い」これも、なるほどです。経験というわけですね。

また、「日本はいい」とか、「過ごしやすい」「住みやすい」と書いた人も多くいました。

日本人から見ると、不平不満の多い日本の現状ですが、彼らから見るとまた、違うようです。

その理由も様々で、「日本には戦争がない」、「日本人は親切だ」、「女の人も夜、一人で歩ける(びっくり)」、「若い人も、働くチャンスがある」、「日本にはきれいなところがたくさんある(今はお金がないから行けないけれども、行きたい)」など。

「イヤなこともたくさんあるでしょう。困ったこともあったでしょう。いいことばかり書かずに、そっちの方も書いて」と言うと、「地下鉄の乗り降りに困った」「食べ物に困った(イスラム教徒の学生です)」くらいしか出てこないので、う~ん。

しかしながら、卒業生以外は、長くて一年、短ければ二ヶ月くらいしか日本にいないわけですから、まだ、それくらいのものでしょうね…まだ書き上げていない人もいることですし。

日本滞在の時間が長くなれば長くなるほど、マイナスの面を強く感じさせられることも増えていくでしょう。まだ、「いい」と言ってくれるこの期間は、ある意味、私たちにとって、貴重なのかもしれません。

日々是好日

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「卒業文集」の作文書き。

2024-03-05 08:37:09 | 日本語学校
曇り。

今朝は、どことなく、寒々しい。昨日のように、青空が姿を見せていないからでしょうか。空気までヒンヤリと感じられます。春は一歩一歩近づいているというのはわかるのですが、時々足踏みをしたり、退いたりしているようなので、ちょっと困りますね。

今日は「啓蟄」。

さて、「卒業文集」を書き始めています。「A・Bクラス」と旧「Dクラス」は終わっているようですが、「Cクラス」と旧「Eクラス」はまだまだです。

旧「Eクラス」は、先週の金曜日にやっと『みんなの日本語(Ⅱ)』が終わり、今週、復習を三コマ予定していますから、その間に、書かせるつもりでいます。まあ、10月に来た人達ですから、時間は少々かかるかもしれません。いまだに、ノートの一行に字が入らずに、二行にわたって書いてしまうような人も、二,三人いますから。

先週でしたか、このクラスでちょっと時間が取れたので、(文集のための作文を)書かせたことがありました。その時には、皆、今のレベル(初級)の文章だったので、安心したのです。何かを見て写すとか、そう言う人はいなかったのです。ところが、一人だけ、それからあと、二度ほど、「書いたから見てくれ」と持ってきた学生がいました。見ると、明らかに、何かを写したか、それもAIを使ったものであることがわかるようなものだったので、んんん…。

もちろん、見ることは見たのです。文章も、不自然な箇所がいくつかありましたし。まだ「学びの最中」であるのに、今、これをやられてしまうと、これからあとが大変なことになってしまうということで、ちょっと注意をしました。

「この文章は今のレベルでは書けませんね。単語は調べたといえばすむけれども、文法は『N1』のものもあるし、『N1』では学ばないようなものもある。こういうのよりも、自分で書いたもののほうがずっといい。最初に見せてくれたものは、よく書けていましたよ。あれにもう少し書き加えたらどうですか」

本人は、いいものを出したいと思って、私に見せたのでしょう。ただ、基本を学んでいる間は、何事によらずですが、自分が未熟なうちは、それを見える形で表に出した方がいい。その方がずっと早く身につく。変に繕ったりしない方がいいのです。芸事のようなものですから。

そんなことを言うと、ハッとした顔になっていました。国の大学ではそういうこともよくしていたのかもしれません(彼女一人に限らず、傾向として皆が)。だから、言語を学ぶための作文書きであっても、「じゃあ」となったのかもしれません。習慣で、手を借りてしまったのかもかもしれません。

ただ、これは異国(日本)の言葉ですし、同じクラスの人達が自分なりの拙い言葉で綴った文章の中に、こういうものが一つであろうと、入っていると、それは不自然ですよね。違和感のみならず、不快感を覚える人が出るかもしれません。拙いものは拙いなりで十分なのです。一年後(今度は卒業生として書いた時)に、どれだけ上手になっているかわかりますから、楽しみが増えるというものです。

日々是好日
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