日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

漢字自体はお絵かきなんだけれどもなあ。意味と読みが加わるから、ちと面倒なのかもしれません。

2018-10-23 08:37:14 | 日本語学校

曇り。

またまた、曇り空です。なかなか青空は続きません。今にもポトリと落ちてきそうな空模様です。

さて、学校です。

こうも、雨が降ったり、晴れたり、またそれに伴って、気温が高くなったり、低くなったりしますと、年中ほぼ同じ(気温)という地から来た学生達は、どうもいけませんね。元気がなくなる人が増えてきます。ただその中にあっても、いつもと同じという人もいて、まあ、救われるのですが、こういう人に限って、どこかしら「ノウテンキ」で、困ります。

「君はねえ、受験生なんですよ。漢字を覚えなくちゃ」「はい、でも…難しい」「書けば覚えられます。はい、リズムをつけて、ノーに、ヨコ、ヨコ、タテ、タテ、タテ、タテ、ヨコ、そして、テン、テン、テン、テン、無理のム」「はい、はい、(ニコニコニコ)」…でも、成果はない…。面白がっているだけ…。

こういうやり方は、最初の頃こそ、ある程度の効力を発揮するのですが、少しでも「かっこわるい」とか、「気恥ずかしい」とか、あるいは、それが嵩じてしまいますと「子供っぽい」とか「馬鹿みたい」などの感情(もちろん、はっきりとは言いませんが、そう思っているなと、こちらが感づくほどの表情)が入ってきますと、なかなかうまくは参りません。

来日後、初めの2週間で、「ひらがな」「カタカナ」「音便」などをざっと終え、すぐに「『N5』漢字」に入るのですが、最初の頃は、「カタカナ」を用いて攻めていきます。これが、「『N5』漢字」の終わりごろになりますと、もう「漢字」のパーツがほどよく入っていますから、それで確認を取りながら教えていけるようになるものなのですが。

ところが、いくら経っても、「『N5』漢字」がマスターできない人がいるのです。多分、そこには「外国語は話せればいい」という、彼等の国での「ナライ」と言いますか、「思い込み」があって、そうなるのでしょうが。

そうなりますと、もう「点」「縦」「横」などしか道具はなくなってしまいます。そして、言われたとおり書くのは書くのですが、「覚えるため」に書くのではなく、「(その場を)取り繕うため」に書くだけということになってしまいます。

「読み」「意味」を覚える気で書かなくては、時間の無駄だと思うのですが、やる気が無ければそうなってしまうだけなのです。多分「(本を)読む」という習慣がないのでしょう。「聞く」「話す」が主の国と、日本や中国のように「読む」「書く(これはちょっとクエスチョンですが)」が主の国とでは、学び方も異なって来るもの。

本当に書かないですねえ。でも、遊び半分で入れると、面白がって書いてはくれる。そうして遊んでいるうちに、手が書くことを覚え、ある程度は自然に読め、書けたりする…のを、半分期待しているのですが。

だいたい、漢字なんて「お絵かき」の要領なのです。あとはできるだけたくさん読むこと。また自分の考えを書いてまとめて行くとき、簡単な漢字を入れていけば、いつも使う漢字は、自然に覚えられるものなので、見知っている漢字も増えていくと思うのですが。

とはいえ、メモを取る習慣とて無いのです。きっと少ししか覚えなくていいような生活をしていたのだろうなと思ってしまいます。

小学生の頃、その日の授業の終わりに、先生が「連絡事項(明日持ってくるもの)」などを、小さなノートに書かせたりしたものですが、その習慣は日本人には多かれ少なかれ残っていて、大人になっても、何かしら、すぐにメモを取ってしまうのです。ところが、それが、彼等にはない。

午前の授業の学生は、授業後、アルバイトに行ったりしますから、昼、言われたものを、その日の終わりまで覚えているわけがない。アルバイトが終わってから、「疲れた」で、すぐに、眠ってしまうでしょうから。「忘れないように」と言われたものが、そのままリュックに入れてあるものであれば、大丈夫だし、新たに付け足すものであれば、まず、何人かは忘れてしまう。

こういう連絡事項でも、あるいは授業中の大切なことでも、すぐに書いたり、印をつけたりが、あまりできない人が多いのです。学校では、その都度「はい、書いて」とか、「はい、ここはチェックして」とか言って、注意を促しているのですが、「あ、ここは大切なんだ」とか、「メモしておこう」とか、自主的にすることが少ないですね。

ここを出て、専門学校に行ったらどうするんだろう。それよりも、ほとんどの学生が将来日本で働きたいと言っているのだけれども、会社に入ったらどうするんだろう。「忘れました」「できません」は通用しないと思うのだけれども…。

おそらく、こういう日本語学校は、彼等の社会から日本の社会への「つなぎ」の部分になるのでしょう。ある人はこの「橋」を渡るのに、時間がかかってしまい、渡れたとしても、それから後も、うまくはできないのかもしれません。できるだけスムーズに渡れるように、こちらも日本語を教えるだけでなく、日本人の習慣なども加味しながら伝えていこうとしているのですが、壁の厚さ数メートルという人もいて、…難儀やな。

日々是好日

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人は…なかなか思うようには動いてくれません。受験を控えているのですがね。

2018-10-22 08:28:39 | 日本語学校
晴れ。

昨日に続き、「晴れ」です。「洗濯日和」が、やっと来た(…秋は「秋晴れ」のはずだったのに…)と、皆がホッとしたことでしょう。あまりに雨が続いた、降らずともジメッとした日が続いた…故に、青空を見ても感慨が深い。

日本の空の「青」は、何か他の色が入っているような感じです。砂漠地方や湿り気をあまり感じない地域の「青」とは、言葉こそ似ていても別物。それゆえに欧州に留学に行った画家達は、空気の色に悩んだ…。空気が違えば、もの皆、色が違ってきますもの。

衣服も、建物も、食も、何もかも、色を伴います。色が異なってくれば、地の色から模様まで一色とは参りますまい。

となると、当然のことながら、生活習慣、宗教、つまり文化も、底の底が違ってくる。一年や二年、10年や100年のことではありませんから。

表面的には、その時々の先進国から、さまざまなものが導入されたとしても、ゆっくりと、この地に似合ったものに変わっていく。日本では、自分たちに合わないものは、引き抜いておくと言うよりも、一度はジワリと入れておき(なにせ、異国のものは自分たちのモノより、数段上と思っていましたから)、とはいえ、いつの間にか、ジワリと無くなってしまう…ものも少なくない…。

その文化を伝えた「人」を重んじるというよりも、「書物」の方を重んじてきたのかもしれません。「本」を読んだ時は感動し、著者に会いたいと思うが、会ってみると、がっかりしてしまう。これに似ているのかもしれません。

…なにせ、海がありましたから。現物(文物)を見ることはあっても、人が、こちらを呑み込めるほど大挙してやって来るということはありませんでしたもの。船で来られる程度の人であれば、日本の自然で、ゆっくりと日本化されていく…。南から、西から、北から、古代、多くの人々がやって来ました。そして、この中に呑み込まれていったのです。

これは、世界の、あらゆる地において、そうでしょう。更地のような大地が続いていれば、同じ色にすぐに染められるかもしれませんが、そうなることを阻害する急峻な山、人を寄せ付けぬ砂漠、そして日本のように台風が正直にやって来る海などがあれば、伝えられるものは、彼の地の人々から文物まで一切合切ということは、まず、あり得ない。学びにいった人がいて、それを戻って伝えたとしても、その人が生育した地の習慣はなかなか消えるものではありません。伝えられた時、既に色がついている。また彼の地の人が直接やって来たとしても、学ぶ人は、その人とは別の、それぞれの背景を持っている。白が赤や黒に染まるようには参りません。

そうなのですよね。

そこまで考えてきて、「さて」となったのは、この地にやって来た留学生達のこと。

なかなか思うようには参りません。

もちろん、大半の学生は若く、また素直で、こちらの意図するところをわかってくれる。…この「わかってくれる」というのは、「ゴミ出し」や「時間に遅れない」とか、そういう「行動」においてなのです。が、「考え方」というのは、難しい。

「ゴミ出し」は、寮生に関しては、近所や大家さん、不動産やからクレームがつく度に、最初の頃は、寮に帰らせて、やり直させたりさせる。…最初に説明はするのですが、1回でできるようになるかといえば、そういうものでもなく、数度必要なこともあるのです。まず分別して捨てるとか、捨てるのにも金がかかるという認識がないのです。でも、ここではそれは通用しないというのは、わかりやすい。

時間を守らず、平気で遅れたり、休んだりすれば、即、アルバイトは首になる。あるいは厳しく叱責される。また、教科書を忘れれば、1、2ページ分のコピー代を払うか、取りに帰らせられる。だから、忘れなくなる…のが普通(とはいえ、毎年、高を括って、忘れても隣の人のを見ればいいという根性の人が出てくるのです。書き込みをしたりするので、忘れたら、後が面倒だと思うのですが、テキトーで済ませる習慣がついているのです。それでも、彼等の国ではどうにかなれたのでしょうね。自分は別という意識が高すぎる場合もよく見られるので)。

どうしても、自分たちの国の「習慣」というか、「それで済んだ」体験から抜け出すことができない人もいるのです。

日本でも、最近では「格差社会」になったとか言われていますし、確かに「一億総中流」社会といわれていた時代に比べると、社長の給料が「億」を超える時代になったわけですから、二極化は進んできたのでしょう。しかし、「金は天下の回りもの」という意識や、「一円を笑う者は一円に泣く」なんて言葉は、聞けば多くの者が、否定はしますまい。

日本は、まだ、がっちりと「仕切られた格差社会」ではないのです。

日本人なら、「(頑張れば、だれでも、進学したいところへ行けるが)頑張らなければ、行けない」というのを理不尽と感じるでしょうか。まずそう思う人はいないでしょう。反対に、「頑張らないのに、行ける」のは、「おかしい」と思うでしょう。

この方が私には正常であるように思われるのですが、それが…なかなか難しい…。こういうのも、…よくわからない…のです。

日々是好日
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秋なのに、なぜか秋という気がしません。草木に目が行っていないからでしょうか。

2018-10-19 08:32:45 | 日本語学校
曇り。

まだ、青空が透けて見えます。うっすらと灰色の雲がかかり始めました。やはり、雨になるのでしょうね。

9月はほとんどの日が「雨マーク」、そして10月も中旬が終わろうとしているのに、「晴れの日」は数えられるほどしかありません。こりゃあ、「秋の長雨」が、皆の意識の中に、「春」「夏」「秋」「冬」「梅雨」と同じくらい、定着するかもしれませんね。もっとも、長く続いた「のマーク」も、今日で一旦途切れ、土日月火は「晴れマーク」が続くとか。曇り空を伴う「晴れマーク」のようですけれども。「更衣」の時期だというのに、こう雨が続いては…やってられないと思っていた人が大半だったでしょう。

雨が続いたせいでしょうか、なぜか今年は「花」に目が行きません。例年だと嫌でも気づき、はっとして「秋を覚える」はずなのに、スルリと大切な時間が逃げてしまったような感じがします。

さて、学校です。

どうも、「行きたい」と言えば、そのまま「大学に行ける」と思っている…らしい人たちが今年は例年になくいて、ちょっと戸惑っています。

母語で受験することができないわけですから、当然のことながら、日本語のレベルが問題になってきます。それはだれが見ても当然のこと。それがわからないのがおかしいと思うのですが、どうもそれを度外視していても当然というふうなのです。

あの人がよくて、どうして私がよくないのかと納得できないのです。一目瞭然のことだと思えるのですが、日本のように平等社会の実力主義で、生きてきてはいなかった人たちには、どうも、わからないことのようなのです(もちろん、日本の大学にもいろいろな問題があり、実際に取り沙汰されているようですが、満点をとれば、どんな出身であれ、合格出来るのは万人が認めるところでしょう)。

同じ頃に来日していても、「7月」に「N3」に合格出来た者と、かなりの点数が足りなかった者とでは、受験できるところが違う、違いが出るのは当然のこと…だと思うのですが、それがどうもわからない…らしい。

専門学校受験に際しても、「N3」に合格している者は、かなりの確率で合格出来ていますから、それから推測できると思うのですが。

それに授業をしている時に、こちらも学生の資質、態度などを見ていますから、「大学、大学」と騒いでいても、努力していなければ、こちらとしても、専門学校を薦めざるを得ないのです。なぜかと言えば、失敗すれば、来年の3月で帰国ということになりますから。

「帰国になってもいいの?」と訊くと、「えっ」と驚きます。本人は受ければ必ず合格すると思っているらしい。

反対に、今「N2」を勉強していて、大学受験を目指している者は、家でもかなり勉強しています。グンと伸びてきていますから、それがわかります。努力しているのです。授業中でもダラダラしていません。

同じクラスでも専門学校合格を既に果たした者、また受験するつもりの者は、大学受験が大変だと言うことくらいはわかっていますから、下手に騒がない。「大学へ行きたいのですか。多分、難しいと思う」と言われれば、「大学を受験したい」と言っていた者でも、すぐに方向転換をする。実際に、努力している人を見ていますから。あれほどは、頑張れないということがわかるのでしょう。専門学校合格を目指します。

この、「自分でレベルがわからない」というのも困りますが、教えている側がそれがわからないというのも困ります。学生は教師の反応で忖度しますから。

早い段階(5月、6月)で、「大学へ行きたい」と言われれば、「そうか」と一応は答えます。夏休みもありますし、頑張れば、(上のクラスに)追いつけることもあるでしょう。夏休みは学校を開いていますから、勉強したい者は、休み中、学校に来て勉強していました。学校には誰かしら教師がいますから、その都度、彼等の相手をしていました。

ところが、「行きたい」は口先だけのことで、実際には何もしていない。新学期の授業の「様子」を見ていても、全然頑張っているように見えない。これは無理だな。止めた方がいいと思うのは当然のことでしょう。

以前、「大学、大学」と言われて、無理をして面接練習をさせて、無理を言って入れていただいたことがありました。しかし、ついていけなくてやめてしまった…ということがありました。こちらの側の面倒も意に介していなければ、大学側の恩も全く気にしていません。平気の様子で、行かなくなり、辞めてしまいました。

多分、「大学生」になりたかっただけなのでしょう。勉強の習慣も、心づもりも全くなかったと思います。面接の練習でも、言葉では切り込む術がなかったのです。

「N3」に合格し、「N2」合格を目指して頑張っている学生には、いくらでも手はあります。彼等と「面接」や「作文」、「試験対策」などをしているうちに、「ああ、そこはすごい。そこは言った(書いた)方がいい」とか、「どうしてそう考えていたのか」などを質していけばいいからです。時間がかかっても、それはこちら側にもやりがいがある仕事です。それに、考える習慣が、母国でも培われていますから、考えておくように言えば、自分でそれなりに考えてきます。すぐ飽きて、ダラダラしたりしないのです。やっている方も気分がいい。これは大学の先生方にしても、きっと同じでしょう。

「テキトー」が習慣になっている人は、本当にやりにくい。外国で、毎日学校に行きながら、アルバイトも頑張っている、それだけで終わりであれば、多分、よほど資質が無い限り、大学は無理でしょう。また、行ける専門学校も限られてきます。

あの人は真面目です。真面目?でも、学校に来ているだけでしょ。もちろん、学校で眠ってはいない。でも、家で勉強もしていなし、勉強の習慣がついていないでしょ。

ここは、彼等の母国ではない、異国です…やっていけるはずがない。また頑張っていても、時間は冷酷で、1月に来た者よりも10月に来た者の方が、10月に来た者よりも7月に来た者の方が、そして7月に来た者より、4月に来た者の方が有利なのです。

資質を見てもらうにしても、介在する言語がなければ難しい。また、たとえ、入れてもらったとしても、言葉がわからなければ、大学の講義についていけるはずがない。それが、いくら説明しても判らない人にはわからないのです。また判るような人には説明する必要がないのです。本当に困ったこと。もちろん、受験するのは自由ですが、「資格がある」と認めた人の練習の後です。だいたい、この練習を通しても、頑張れる人は伸びていくものなのです。ダラダラしたり、遅刻したり、約束を守れなかったりした人に割く時間があったら、そちらの方に時間を使いたいと思っているのです。

日々是好日
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今日は晴れました。

2018-10-18 08:49:34 | 日本語学校
曇り。

「晴れ」と、言い切れないところが、なんともはや…。なんでも、1回でも雨が降った日が、昨日を含めて8日ほども続いているとか。神無月になって、すでに17日過ぎているというのに、その間、12日は雨が降った…。天気予報のお兄さんがそう言っていました…。

今日は、久しぶりに「晴れマーク」。確かに、ついていたのはついていたのですが、すぐ横に、斜めに切られて、これまた雨マークが…。夜には降ると言うことなのでしょう。

学生達のダウン姿ももう見慣れたのですが、一年生はまだ靴下は…穿いていない人が多いようです。困ったものです。いくら体が大きく、頑強そうに見えても、この下から這い上がってくるような湿気と寒さからは逃れられない。それがなかなか判ってもらえず、うるさく言うと(きっとまた叱られるとでも思うのでしょう)私の顔を見ると、逃げ腰になっています。

これが自分のクラスの学生だと、追いかけごっこが楽しいふうになってくるのですが、他のクラスではそうはいきません。言われてすぐに穿いてくる学生もいれば、「(穿くなんて)気持ち悪いのに、どうしてしつこく言われるのだろう」と腰が引けている学生もいます。

説明しようにも、言葉が不自由では、「穿け」とまでは言えても、「何故に穿かねばならぬか」を伝えることができません。こういうところが、確かに不自由ですね。

さて、この頃になりますと、「一年生」と「二年生」のクラスの雰囲気がガラリと変わってきます。「一年生」は、4月に来た者はすでに半年を過ぎていますから、日本での暮らしにも慣れたとばかりに余裕綽々の者も出てきます。まあ、こんなものかとやや甘く見がちになってしまうのでしょう。「二年生」の方は、専門学校進学希望が多いクラスでは、願書書きや面接の準備などで、人が引かれていきますから、ポコン,ポコンと空席が目立ち始めます。

上のクラスでも、専門学校希望者は少なくないのですが、取り出しをする必要はあまりありません。アルバイトが休みの日、足りなければアルバイトを休んで、放課後に残れば済むのです。漢字もある程度書け、一応クラスとしては「N2」の勉強ももう中盤を超えているくらいなのですから。

ところが、やはりお国柄といいましょうか、アルバイトや交通などの生活には慣れていても、国での習慣というか、やり方が、ポロポロ出てくるのです。

日本人の傾向としては、たとえば、部屋を借りた場合、決められた日に部屋代を払わなければならないことが決まっているのですから、一応、1か月後に備えます(払わなければならないと言うことがわかっているのですから)。

ところが、それができない。今日払ったら、終わり。1か月後に同じことが起こると言うことをすっかりと忘れてしまうのです。寮費などは、急かせれば済むし、毎度のことでこちらも慣れている(担当者は大変でも)。それが、進学のための「願書書き」や「面接準備」、「試験準備」などになりますと、突然、「明日やりたい」とか、「ここの試験を受けたい」とか言ってくるのです。一人であれば、「子供っぽい人がいるな」で終わるのですが、この「よく判らない」のが、一人で終わらず、ポン、ポンと現れてくるのです。

私の方でも、「週の初めに空き時間(午後)を知らせ、残る必要がある者はそれを言う」、ということにしているので、学生によってはアルバイトを休んで残っていたりしているのです。ですから、急に「私は2日後に面接だから自分のことをやってくれ」と言われても、早めに用意し、アルバイトを休んでいる学生を止めて彼の面倒を見ることなどできません。割けるとしても、わずかな時間しか割けません。

彼等の国では、きっとそれが普通なのでしょうが。

目の前のことにだけ、動く。それで事足りていた社会から、急に複雑に縦糸と横糸が絡み合っている社会に来ると、今迄のやり方が通用しないものなのですが、それが1年半ほどいても、やはりわからない。

「予定していた人を押しのけることになる…その人に迷惑をかけることになる…。おかしいでしょう?」が、「私は大変なんだ」で、消え去ってしまう。面倒見てもらって当然。きっと国でもこういうとき、簡単に融通が利いていたのでしょう。仕事で、大して駆け回らなくても済むような国であれば…、そうでしょうね。

それに、こういう国では、決まった仕事というより、不意の仕事というか、そういう仕事の方を大切にする傾向があるような気がします。つまり、「だれかから頼まれた」というのが大切なのです。日々の仕事というのは、「だれ」がいなくて、「せねばならぬ仕事」でしかない。これでは甘い汁は吸えません。いえ、お金が行き来するのではなく、「関係」というか「情」が行き来するのです。「あの人にやってもらった」とか、「あの人に便宜を図ってもらった」というのが大切なのです。

これは中国にいる時、何となくわかったことなのですが、日々の、当然やらねばならぬ仕事ではいい加減にしているのに、誰かに頼まれた途端、真剣にし始めたりする人がいるのです。この「だれか」というのも、金持ちとか上司とかには限りません。友達であったり、友達の友達、あるいはもっと遠い関係であることもあるです。

というわけで、こういう時期、突然に「わあ、わあ」が多発し、いやでも振り回されてしまうということになってしまいます。また、前述したとおりの理由で、知り合いが紹介したに振り回される人が続出します。

この学生はこれくらいの日本語のレベルだから…と、こちらはこちらで「計算」して、受験を勧めたりするのですが、だめですね。私たちのやり方は、「公的」というと、ちょっと変かもしれませんが、そこには学生のレベル、あるいは資質、あるいは習慣等こそ加味されていても、知っているからいい学校を紹介しようなんて「私的」な情の部分はありませんから。

だから、彼等にとっては、どこか大丈夫かしらんと思ってしまうのかもしれません。「個」で、「個の情」で過ごしてきた人に、「客観的にそう」なんて言っても通用しないのです。

何やらの関係でしか見えないのでしょう。どんなに低いレベルであっても、人間関係でどうにかなると思っているのであれば、真剣に勉強する人の方が珍しい。得がたいとなるのでしょうね。

とはいえ、そういう人は往々にして、「自分はあいつらとは違う」と増上慢になってしまうこともまたあり、それはそれでまた大変。「(いくら頭がいいにしても)今の君の日本語レベルは、そんなに高くないんだよ」と言ってやらねばならない。もっとも、言ってやっても、聞く耳を持たない人もいるので、これもまた面倒。

既に進学先が決まった学生は、教師の指示通りに受験して、あるいは許可(大学に不合格になった場合に備えて、あるいは話し合って)を得て受けた学生。

やはり、何事によらず、素直な方が勝る場合が多いようです。だって、大半は普通の人なんですもの。

日々是好日

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愚図ついたお天気が続いています。

2018-10-17 08:27:35 | 日本語学校

曇り。

お日様が恋しくなるほどの、ぐずぐず天気が続いています。ぐずつくのはまあ、お天気のことですから仕方がないにしても、それでもですね、こうも続くと、だんだん気持ちまでしけてきます。

これは、明らかに「梅雨」時の気分。

日本は、「梅雨」を含めて、四季ならぬ五季あると言われるところではありますが、こうも夏の「猛暑」から、一転、「晩秋」になってしまいますと、またこれが雨を伴っていますから、秋の「長雨」をも含めて、六季ではないかとも思われてきます。

今週末まで。きちんとお日様がお顔を出してくれるというのは…らしいですから、あと少しの辛抱…。で、終わってくれるのでしょうかしらん。

先だっての「台風」による「塩害」。海の近くで生まれた人間にとっては、「潮風」で、もろもろが、錆び付きやすくなってしまうというのは、それほど珍しいことではありませんが、それが植物にまで至るというのは、ちょっと耳新しいこと。

職場の一人が「バラ(薔薇)」が大好きで、お宅で、毎年、きれいなバラを咲かせるのが楽しみなのだそうですが、どうも、今年はだめらしい…。「塩害」です。あれだけ一生懸命に育てていたのに…。こういう声が各地で聞こえてきていた…。と、今度は「『サクラ(桜)』が咲いた」という話です。

「台風」の強風は、各地に海の塩をまき散らしたらしい。普通なら「潮風」なんて届かないような地でも「塩害の話を聞くくらいですから、それほど強烈な「風台風」だったということなのでしょう。

さて、学校です。

猛暑がいつまでも続くかに思えたのに、一転して、11月並みの寒さが続いています。そしてお決まりの風邪引きさんが続出しています。ということは、入口、出口での「靴下を穿いているか」のチェックが始まったと言うこと。

夏ならば、判るけれども、これくらい寒くなると、靴下一枚の暖かさというのは、貴重であるような気がするのですけれども、まだ「気持ち悪い」の方が勝っているようです。

「一年生なら、(風邪を)ひいたか、そりゃ、いけないね。薬を飲んで寝ておきなさい」で済ませられることでも、入試が近い二年生は、のんびりと構えているわけにはいきません。少しばかり辛くとも、アルバイトも休めないし、学校も休めないという人は、ついつい無理をしがちで、気がつくとフラフラになっている。

それでも、時間が来れば、願書を書かねばならない。

彼等を見ていて、思うのですが、「これは書類だから丁寧に書かねばならない」とか、「歪んだりさせてはいけない」とか、そういうことに気をつけて書くという習慣があまりないようなのです。

「字を書いて練習する」という習慣が、たいしてないからと、一言で済ませることもできるのですが、とはいえ、まず、読みにくい。「ひらがな」「カタカナ」に1か月かかるというネパールの先生の話を聞く度に、あの字を1か月も書いていたのかと、絶望的な気分になる。ちゃんとファックスで送ってもらって、訂正して返していたのですがねえ、学生にとっては何にもならなかったようです。

中には、解読不能に近い形の文字を書く人さえいる。日本に来るまでの日本語の勉強期間に、半年とか一年とか、そういう「ひらがな」「カタカナ」で、ずっとやってきたので、帰られないのでしょう。来日後は、宿題を出させる度に訂正して返し、また注意もしているのですが、…これが、改まらない。少なくとも、自分の名前だけは正しく書くようにと言っておいても、翌年の専門学校入試の時までは改められない。

下手とかうまいとかの問題ではないのです。日本で仕事をして生きていくつもりなら、きちんと書けるようにならねばならない。まず読める字を書く練習をしなければならないと言っても理解できないのでしょう。

「ひらがな」、「カタカナ」、「漢字」は言うには及ばず、「アルファベット」や「数字」にしてからそう。「アルファベット」のブロック体なんて、だれでも読める字は書けそうなものなのだけれども、字を書く練習なんてしたことがないんだろうなあ。もちろん、話せればいいと言うだけのことであれば、字を知っていようがいまいが、きれいに書けようが書けまいが、関係のないことなのでしょうけれども。

日々是好日
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他の同国人の話に、右往左往してしまう人もいて、困っています。あっちが楽だと聞くとすぐそっちを見てしまう…。

2018-10-05 08:48:00 | 日本語学校

小雨。

この頃の雨は、霧雨と言うには少々大粒、かといって小雨と言うにはふさわしくない。どう言えばいいのでしょうね。…今日は一日中、こんな感じで降っているのでしょうか。

最近、空き時間に学生を呼んで、面接の指導をしたり、願書書きや作文の準備などをさせているのですが、なかなか面倒な人もいて、神経を使わされています。

「紹介してください」という言葉と、「助けてください」という言葉を連呼するのです。 どの程度、こういう言葉の意味を判って使っているのかなとも思うのですが、まずは、「自分でできることをするしかない」と答えています。

夏休み前から、「ここはどうか」と勧めてみたところはあるのですが、お金が高いとか、何かわからないことを言い出して、なかなか動こうとはしません。どうかと私たちが勧めた大学にも、なぜかいろいろな理由をつけ、心が動かされないようです。

その時は「はい」と言っても、数日後には、また「行かない」と言い出す。それでも勧めたりしていたのですが、これを3,4回繰り返し(繰り返す度にこちらの話は長くなります。いろいろな角度から説明しなければならなくなりますから)、こちらがもういい加減、「もう、いいか、後は自分で考えた方がいい」などと諦めた頃、別の機会に他の教員がその大学について説明した。すると、勢い込んで、「○○先生が、こう言いました。なになにだそうです。私は行きます」と言いに来た。「そんなこと、とっくに説明しただろう」と、いい加減、嫌になる。でも、行くのはいいから、では、何期に応募するかと相談する。

それで、決まったかと思っていると、また翌日、「行きません。なになにですから」等と言いにくる。「ハア…」。

そして、10月。昨日のことです。一つの専門学校の願書を書き上げ、「ここはとてもいいです。行きたいです。ここを出た学生はなになにで働いています。私もそこで働きたいです」。「そこで、どんな仕事をしているか知っていますか」「???」

「もう一つ受けたいです。心配ですから。この学校はとてもよくて入るのが難しいから。紹介してください。ここはどうですか。あそこはどうですか。」などと言う。私が黙っていると、「助けてください」と言う。で、「どちらでも同じでしょう。大して差はありませんから」

絶対に入れるなんてだれにも言えません。努力して勉強するしかないのです。

「○×という日本語学校は、この専門学校に推薦で入れます。(ここは)できますか?」「できません」。

「そこは同じ系列で経営者も同じ。そこに入りたかったら、そういう日本語学校に行けばいいことです。そうしたら、勉強しようがすまいが、入れるのでしょう、その専門学校に。10人と数が決まっていれば、それだけの人数を入れるのでしょうから」

こちらが合格できるだろうと思っていた学生でも、失敗することがある。彼は「どこでもいい、ここなら絶対に入れる」という言葉が欲しいだけなのでしょうが、そんなこと、だれにも言えません。頑張るしかない。

よく、こういう状態で彷徨う人がいます。決めることができずに、あっちへ訊きに行き、「じゃあ、ここにしよう」。ところが、他の話を訊けば、なぜかそっちが良く思われてしまう。で、「そっちへ行こう」ということになる。ところが、また別の人の話を訊けば、やはり前のところの方がいいということになり、またそちらへ心が傾く。この繰り返しなのです。で、最後は、決めてくださいと言いに来る。

「こちらの方がいい」ということは既に言ってある。同じことを言っても、また他の誰かが向こうが良いと言えば、彷徨い始める。だから、何を言っても、無駄な気がする。どうしようもないのです。とはいえ、リミットは来ますから、いずれ決めなくてはならなくなるでしょう。

その、彷徨っている3ヶ月間、何をしていたかというと、何もしていない。うろついていただけ。心がさまよっていただけ。

「『どうしよう。どうしよう』と言っている間に、漢字の一つでも、単語の一つでも、覚えたらどう?」…でも、できない。すぐ、ほかの人の言葉に引きずられてしまう。

そもそも何をしたいかがはっきりしていないから…。でも彼の場合はそうではないのです。したいことははっきりしている。それなのに、あっちへ行き、こっちへ行きしている。「そのうち、だれにも相手にされなくなりますよ」としか言えませんね。人が言った話にすぐ飛びついてしまうのです。

何ヶ月も相手をしてきたのに(本当に面倒です。同じことを何度も何度も言いに来ますから。日本人が相手だったら、「私が言えることは既に言いました。ほかの人もそうでしょう。あとは自分で考えてください」と、何回か相手をした後、言うだけです。彼には、既に何ヶ月も同じ話を聞いてやり、何ヶ月も同じことを言ってやりしてきました。とはいえ)、「もう、自分で考えなさい」と言うと、捨てられたような気になるのでしょう。

かといって、彼が持って来て、いい専門学校だというのは、別にいい専門学校でも何でもないのです。普通の、大して勉強しないような外国人が行くようなところなのです。

私たちが、いい専門学校というのは、日本人が主であり、入るのは難しいけれども、入ってからきちんと勉強させてくれるところなのです。だから、そもそも話が噛み合わないというのもわかる。

だいたい、私たちに、勧められたとおりに大学を受験した学生は、すでに合格して、落ち着いて次の目標に向かって歩み始めているのですけれどもね。

日々是好日
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学校の教員達のてんてこ舞いが始まっています。どのクラスの担任も大変、大変。

2018-10-04 08:51:45 | 日本語学校
曇り。

空一面、灰色の雲が広がっています。「(今日は)いつ降り出してもおかしくない」などと言われますと、困るのですが、それでも、「それまでは降らないということだ」とも、「降り出さないかもしれないということだ」などと考え、いつも通りにやって来ました。

朝の気温は、20度を切っているそうで、こうなりますと、秋草がもう少し見られてもいいような気がするのですが、目につくのは、まだまだ夏の名残の草花。

「カンナ」も咲いていますし、「マツバボタン」もまだ顔を覗かせています。「キキョウ」の青紫を見つけた時には、ちょっと場違いな気もしたのですが、それくらいの涼しさなのです、今は。そんなこんなどころか、「アサガオ」だって、一輪どころか、五、六輪、咲いています。とはいえ、どこかしら、寒さの中で震えているような気がしてなりません。

まあ、台風だけは相変わらずと言ったところです。困ったことですね。学生達も「また、台風ですか」。そう、私たちも、思いは同じ。

さて、学校です。

進学を控えた人達を、こちらの空き時間に残して、指導を始めています。これは、自分から残りたいと言う学生を、まず先に呼んでということなのですが、残りたいという人は、だんだん決まってきています。

作文の指導も必要な学生、面接の指導だけでいい学生、もちろん、個別に見ればキリはないのですが、大きく分ければ、願書書き以外はそれくらいのもの。それがなかなか流れていかない。

今は、週に3度、二人か、三人ずつを残せばいいだけなのですが、時間は大してかからないのに、それが待ちきれない人がいる。

提出書類をチェックし、不明な点を聞かせにやったり、コピーなどをさせている間に、願書書きの指導をする。書かせている間に、少しずつ、面接の指導をしていく。

ただ作文の指導だけは、間で切るわけにはいきません。途中で止めてしまうと、考え始めていたことまでが消えてしまうのです。

まず、「どうして日本へ来たのか。日本でどんなことがあったのか。その中で成長した部分はあったのか。これからどうしたいのか」という問題について考えさせ、何でもいいから言わせることから始めていくしかないのです。誘導尋問のような形でしかやれないのが辛いところなのですが、そういう事を考えたことも、書いたこともない人達が多いので、初めはしょうがないのです。

どうしても、何も出なければ、「例えば、こんなことを言った人(同国人が一番いいのです)がいるけれども」と投げかけてみる。「ああ、私も」と言えばしめたもの。「そう、それはいつ」とか、「だれが言ったの」とか、「その時どう思ったの」、「それはなぜ」とか、彼等が答えられそうな問いで畳みかけていきます。

だいたい、型どおりの言葉でも、自分が言ったというのは強い。ああ、そうだったんだということを一度思い出させておく。これが次のステップへ行く上からも必要なことなのです。総括ですね、これまでの。

文章にするというのは、ある意味で、それほど大切なことではありません。「振り返った」ということが必要なのです。この1年半、ないし1年を振り返り、「なぜ日本へ来たのか」、「なぜ帰らずに次へ進もうと思うのか」と自ら問い、それなりに自分で多少の深みの差はあっても、納得していくという作業が必要なのだと思います。

それが切られると、こちらの気持ちも、考え込んでいる学生の思考も断ち切られるので、元の木阿弥になってしまいます。だから、邪魔されると、こちらは、キッとなってしまうのです。

この、邪魔をするのが、三、四人いる。「自分の事だけ考えるな。待つことも覚えろ」とかなりきつく叱ったあとは、借りてきた猫になってしまうところを見ると、単に国で甘やかされてきただけのことなのです。それも叱られればショックを受けるくらい、悪気がないといえば、悪気がないのです。

その、彼等の指導の合間に、高校受験の学生達の数学を見ているのですが、まずこの文章題というのが難物。日本人からみれば、小学校から同じような形でやってきているので、なんと言うことはないもの。彼等にしてみても、母語であれば、ごくごく簡単な問題というところなのでしょう。が、それが数学的思考で貫かれた日本語ときている。

説明文といえば、そうとも取れないことはない。けれども、彼等がまだ知らないというか、理解しにくい書き方であるらしく、「N2」レベルの彼等でも、「先生、わからない」。そう言われれば、こちらにしても、「そうか…、でも、公式を覚えなさい」、あるいは「こう問われた時はこう解く」としか、言えません。

台湾の学生にはそれで通用しても、インドの学生にはそれが通らない。「なぜ?なぜ?」と迫ってくる。こちらも、中学を卒業してから、数十年経っているので、公式は見れば思い出し、解き方もああそうだったと思い出しはしても、公式を一つ一つ導き出すやりかたなど、ほとんど覚えていない。

で、結局、「本を置いていってね。どう説明したらいいか、帰ってから考えてくるから」ということになってしまうのです。

そうすれば、素直なもので、「はい」と言って本を持ってくる。こちらは「はぁ」という気持ちで受け取るだけ。台湾の学生みたいに、「この公式に当てはめて考えればいいから。このときはこれ、あの時はあれ」で済めば、楽なんだけれどもなあ。なにせ、私は「文系」なのです。

日々是好日
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ベトナムに帰った卒業生が、会いに来てくれました。ベトナムでも会う予定です。

2018-10-03 08:35:30 | 日本語学校
曇り。

雲が出てきました。秋雨前線の所以かな。それとも「台風25号」が、もうこの地にも影響を及ぼしているのかな。

この雲も「鰯雲」というか、「鱗雲」というか…。子供のころ、習ったばかりの、この秋の雲の名前を友達としきりに口にしていたものでした。…楽しかった。

「羊雲」と、これらの雲の違いなんて、感覚的なものでしかなく、大きめだったら、「ヒツジ」小さめだったら、鱗みたいだから「さかな」と、単純に騒いでいただけでしたが。

春と秋は、とかく空を見る機会が増えるようで、それは子供でも同じこと。大人になると、その「空」が、往々にして「夜空」となってしまいがちなのですが、それでも、通勤時、信号で止まった時など、朝の空を見上げてしまいます。

秋といえば、「台風」というのは、ちょっと嫌ですね。もう「嵐」とは言えませんもの。「ススキ(薄)」や「ハギ(萩)」が強風に煽られて、身をくねらせている様はそれなりに「風雅」なものですが、それが台風になり、いろいろなものが飛んでくるとなると、もう、いただけません。

学校の「キンモクセイ(金木犀)」の花は、先週ごろか、既に咲いていたようで、この花を見るたびに「これは何の花ですか」と訊きに来た内モンゴルの学生のことを思い出します。

一人ならず、内モンゴルの学生達は、特に、樹木に関心があったようで、「モミジ(紅葉)」の葉の紅葉や、あるいは他の木々の「黄葉」、また「木の花」にも強い関心を持ち、「(木に)大きな花が咲いている!」と横浜などの地に行った時には、わざわざ言いに来たものでした。

南国で、雨の多い地から来た人達にとっては当たり前のことで、驚かれることに、却って驚いていたようでしたが。

さて、昨日、3,4年前に卒業したベトナム女性が訪ねてきてくれました。毎年、数回来日し、北は北海道、南は九州まで、二十日間ほどをかけて、走り回っているそうで、今週末に帰国できると、疲れを見せながらも、ホッとした表情で、言っていました。

日本の会社から数倍の給料を示されていても、やはり母国で働きたいそうで、ちと残念。

とはいえ、彼女のように責任感があり、強く、賢く、優しく、自分を失わない人は、どこにいても、大切にされることでしょうから、あとは自分の気持ち次第。やはり自分の国が一番いいのでしょう。考えてみれば、だれしも同じことですね。

いとこを留学させたいということで、少し話したのですが、目の下にうっすらと隈ができているのを見ると、これからキャリーを引いて川口にまで行かねばならないという彼女を引き留めることもできかね、早々に話を切り上げました。

新幹線での移動も、「こだま」ではなく、「ひかり」。経費節減のおり、というか、かなり厳しいのでしょう、日本はベトナムに比べれば、物価が高いのです。

日本にいれば、ずっと楽に数倍稼げるのになあと思いながらも、「ずっと、お弁当しか食べていない。早く帰ってお父さんの料理が食べたい」という彼女の思いは、多分、私たちが思っているより、ずっと強いのかもしれません。

今年の四月生は、ネパールの学生も『みんなの日本語』1冊目は終え、2冊目の途中まではしっかりと勉強していました。漢字もそれなりに勉強してきているようで、1年前の学生達の時のように当惑させられることはありませんでした。

ベトナムの学生は、2、3年ほど前から,『みんなの日本語』Ⅰ・Ⅱを終えてやって来る人が多く、これは不安に感じていません。

ただスリランカの学生だけは、『みんなの日本語』というより、「N5」に合格すればいい的な勉強しかして来ていませんから、来日してから、勉強が適当になってしまい、不安を感じているところです。

以前ベトナムの大卒女子が「あの『N5』の試験なんて、だれでも合格する。私は『みんなの日本語』の第5課しかやっていなかったけれども、合格した」と豪語していたのに、(こっちは)「たまげて」、必ず、(ベトナムの)日本語学校で『Ⅰ』を終えてから、受けさせてくれるように(相手方の先生に)頼んだものでしたが、それも、もう過去の話。

当時は、ベトナム学生の、試験場での「カンニング」が問題になっていた時で、合格しているを錦の御旗に来られて、来日後、全然(日本語が)できていいないのに気づかされる…という悪夢は、もう、今は昔の物語。

とはいえ、こういうことも完全になくなったとは言えず、新しい学校の人と会うこともありますから、必ず、最初は「実際に」面接するようにしています。言葉がそれほど通じないにしても、態度などからうかがい知れることはありますから。

先ほどの卒業生も、初めて会った時には、私の言葉がほとんど聞き取れなかったのに、30分、1時間と話しているうちにどんどん反応がよくなってきたのです。「ああ、この子は凄いな。この学校に来てほしいな」と思ったものでした。

来日後も、その通り、頑張ってくれましたが、やはり心は自分のふるさとから離れられなかったと見えます。情が濃いのです。それが変化を求めさせたり、あるいは止めさせたりしているのかもしれません。

まあ、どちらにしても、私たちは彼女が幸せであれば、それでいいのです。

日々是好日
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秋晴れ。昨日は停電で苦労しました…学生の方が大変だったでしょう。だって、とても暑かったもの。

2018-10-02 09:16:55 | 日本語学校
秋晴れ。

昨日は、昼過ぎまで停電が続き、30度を超す暑さの中で、学生達は「暑い」と言いながらも、平常通り、冗談や、あるいは叱られてショボンとなりながら授業を受けていました。

電気が「やってきた」のは、午後の1時限目の時。ちょうど「BCクラス」の「N3漢字・N3文法」の時間でした。「いつ復旧するかわからないから、一応、スイッチは入れておこうね」と学生達に言っていたのですが、パッと明るくなった時には、皆で「おう」。歓声が上がりました。

やはり明るいのはいい。救われますね。暗い教室で、授業をしていると、座っている彼等の顔が、表情が、どこかしら、暗く感じられてくるのです。なんと言いましても、受験はもう始まっていますし、結果も出始めていますから。

そしてすぐに、エアコンのスイッチも入れました…ホッ。朝の「Aクラス」では、陽も入っていたからでもありましょうが、そんな感じは少しもしませんでしたのに。

よく言われることですが、どん底に落ち込んでいく…ような感じになった時には、とにかく、「暖かくして、腹一杯食べる」。それにプラスして、「明るくする」。

専門学校の試験も始まり、既に合否の「審判」が下り、大喜びの学生もいれば、肩を落としている学生もいます。もちろん、まだ、おおかたは専門学校も大学も受験していないのですが、受験したばかりの学生(合否がまだ判っていない)も、失敗した学生を見れば、なんとなく「…自分も」と不安になるようで、それは特に「BCクラス」の四月生に窺えます。

「四月生」は、2、3人を除けば、みな、それなりに勉強してきました。だから、尚更なのでしょう。何事によらず、そうなのでしょうが、分野には得手不得手というのがあります。数学には長けているけれども、語学は苦手だとか、手先は器用だけれども、覚えるのはだめだとか。だから、日本語の、つまり語学の才だけで全てが決まってしまうというのは、それなりに頑張っている人を目の当たりにしてしまうと、どうにもならないこととはいいながらも、少しばかり悲しい。

もちろん、もっと勉強すればいいというのはあたりまえのことなのですけれども。

「漢字」は努力すればどうにかなっても、「ヒアリン」グばかりは、時間がかかる。1か月ほどですぐに音が聞き取れるようになる学生もいれば、一年かかっても、なかなか音が出せない人もいる。

それに、わけのわからない人も混じっている。全然勉強もしていないのに、「専門学校を紹介してくれ」と、要求だけはしてくる学生。自分の日本語のレベルを無視して、「大学、大学」という学生。

こういう人は、「BCクラス」のみならず、「Aクラス」にもいます。「勉強していないのだから、勧められるような専門学校はありません」。「『N3』にも至っていないのだから、大学は無理です」。どうしてこれが通じないのか判らないのですが、中には、もっとわけのわからない身内が出てきて、「いい専門学校を教えてください」。

だいたい、どこでも、テストがあるのです。簡単に「ここはどうですか」とはいかないのです。だって、落ちるでしょうから。受けるのは、専門学校を肥やすという意味ではいいのでしょうが、当人にとってみれば単なる気休め、無駄遣いです。

受けて落ちれば、留学生として当然のことをしてこなかった己のことは棚に上げ、文句を言うだけでしょう。だいたい、こうなるまでに、勉強するように「どれほど言ってきた」ことか。こちらにしても、どれほど「無駄な」時間を割かされてきたことか。それらを全部無視しておいて、今更なんだ。

彼を紹介してきた人にも、随分言ってもらいました(彼も手を焼いていたのですが、一応、親戚ということで責任があります)。一度ならず、何度も何度も行って、注意してもらったのに、平気の平左。全く何を考えているのか、あれほど日本に行きたいと喚いていたというのに。で、とうとう、その人もさじを投げた…。「あれは、どうにもならん」。

すると、今度は、見たことも聞いたこともなかった身内と称する者が出てきて、電話で「先生と話したい」。で、担任が出た。結局、彼と同じことを言うだけ。「これまで、こちらが言ってきたことを、無視してきたでしょ、それなのに、自分の要求だけは通せというわけ」。でも、相手には、多分、こちらの日本語が通じていない。こんなレベルで、代わりに話をつけようとでも思っているのか…いったい、どういうつもり?

これまで、どうにかなると甘く考え、高を括ってきただけのことなのでしょう。自分の国では、それでも、どうにか、なっていたから…でしょうね。日本とは違うもの。大学のみならず、大学院まで出て来日しているというのに。彼等の国と同じに考えてる。

こういう人は、変われませんから、本当に困ります。

…日本人は、信用を重視するし、口先だけの人は嫌われるのだけれどもなあ。

日々是好日
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台風が過ぎて、夏に戻っています。

2018-10-01 17:57:12 | 日本語学校
晴れ。

「台風一過」で、また「夏」に戻っています。33度になるとか、いやもっと上がるだろうとか言われていますが、本当にムシムシと暑い。とはいえ、空はやっと「『秋』になった」かのように、青く澄み切っています。久しぶり…と、思わずため息が出てしまうのは、九月が長雨に祟られていたせいでしょうか。

さて、学校に来てみると、風で鉢は飛ばされているやら、傘立てはひっくり返されているやら、どこやらのゴミ(今日は、プラスチックゴミ回収の日です。ただし、学校のゴミは事業ゴミになりますから、市のこういう(無料で回収するという)恩恵は受けていません。ですから、出せませんし、また出してもいません。故に、絶対にこの学校のゴミではありません)が、学校の前に鎮座ましましている。

夜中の風の強さに(音ですね)、目が覚めてから、なかなか眠れなかったので、やはりいろいろなものが飛んでいるのは、よく判る。けれども、まあ、ひっくり返っているくらいで終わっていてよかった。

で、インターネットが使えない。コンピューターは電気をため込んでいるので、しばらくは大丈夫でしょうが、インターネットが使えないというのは、縄文人と言われている私にしても、困る。電気がないと仕事にも不自由になる。私など、現代人とは違い、それほど利用していないように思っていても、仕事をしている関係上、最少の部分でお世話になっているのです。「困った、困った」です。

学生から、早々と「電車が途中で停まったから、遅れるかもしれない」と連絡が入りました。この辺りは海の近くですから、電車も風に弱いのです。東西線も、地下に入るまでは(海)風の影響をもろに受けてしまう。きっと満潮時と重なった時は、波もひどかったでしょうね。けれども、いわゆる「高潮」警報は出されなかったようですから(深夜です)、大丈夫だったのかもしれません。

全く、今は、風が少々強いのを除けば、(台風が襲来したことなど)ウソのような…秋の朝です。

とはいえ、また「台風の卵」が発生しているそうですから、クワバラクワバラ…(最近は雷様にしても、台風にしても、大雨にしても、何かに出くわしてしまうと、ついこれが口をついてしまいます)。

休みなく、台風やら、秋雨前線やらの大雨に襲われ、修理したばかりの屋根がまた飛ばされただの、せっかく掻き出した泥水がまた部屋の中に入ってきただの、民の嘆きは尽きません。

「すぐれば、民の嘆きなり」です。「八大竜王、雨やめたまえ」

日々是好日
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