雨。
この辺りはそれほどでもないのですが、例の「豪雨」が、「こっちの方」にもやってきました。避難勧告が出されているところもあり、寝ぼけ眼でたたき起こされ、すぐ避難というのは、なんとも悲しく辛いことことです。すぐに戻れればいいのですが、土砂崩れなどで道が寸断されていれば、それも叶わず、また逃げ遅れて孤立させられても困る。
日本は大雨で四苦八苦しているときに、バリ島では火山の噴火が危険視され、緊張状態が続いています。
日本は、毎日のようにどこかで地震が起こり、地面が揺らいでいますから、人はこの大地に仮住まいしている蟻ん子のような存在であることを少なくとも自覚させられています。偉そうにしている人でも、自分の思う通りにならないことが、ある種の間隔を置いて発生すれば、嫌でもそれに気づくことになる。
人の力の及ばぬことが起こり、それによって幾多の犠牲が出、被害が、時のよっては時の人の想像を遥かに超えた被害が出たりする。
昔の人は、「天」が、そうやって驕り高ぶった人間を懲らしめたのだと言ったのでしょうけれども、当時とて「驕り高ぶった」人というのはほんのわずかだったはず。大半の人は慎ましく自分の生活を営み、そして死んでいった…。
こういう「噴火」や「地震」、「津波」「豪雨」などに、「天」を持ち出されてしまうと、時々、嫌な気がしてしまいます。もしそうなら、裁かれるべきはこれらの人ではないはず。そういった気持ちになるのは、災害に遭われた方たちだけではないでしょう。
さて、学校です。
「バチが当たる」という言葉の説明に、川の神様やら、山の神様、ご神木やらを持ち出すと、キョトンとする者やら、「ソウ、ソウ、同じだ」と頷く者やら、「それは間違いだ」と言い出す者やら、いろいろいます。17人ほどの小さなクラスの中に、7カ国から来た人間がいるのですから、反応も、当然のことながら違ってきます。それが面白い。
以前、中国から来た学生が大半を占めていたころには、こういう話に対しても、紋切り型の反応しかなく、こちらとしても面白くもなんともなかったのですが、国の数が増えれば、それだけ、面白さは増してきます。国が違えば、同じ宗教を信じるといっても微妙に違いますし、時には同じ宗教かと思わされることさえあります。
つまらないことでも何でも、こういうのは「話のきっかけ」になると言いましょうか、考えるきっかけになるとでも言った方がいいのかもしれませんが。
もちろん、そこには、自分と異なる文化、宗教を語る者を誹らない、互いを尊重し合うという暗黙のルールが存在していなければなりません。それゆえ、だいたいこういう「雑談」めいたことから授業を始められるのは、一年半くらいを過ぎないと難しい場合が多いのです。
時々、自分の神様を冒涜されたような気になって、猛る人も出てきます。が、そういう時でも、他の誰かが、間を取り持つようなことを言ったりすればそれで大ごとにはなりません。異国である日本で、1年半ほども共に暮らしていれば、共通体験も少なくなく、一人が「あれが…」といえば、こちらが説明する必要もなく、「ああ、あれか」で通じ合えることもあるのです。
ところが、互いに相知らぬ者同士ですと、そうはうまくいきません。
地球上には、「宗教は麻薬である」と言われながら育ってきた者もいれば、生まれたときから神に囲まれて生きてきた者もいます。そういう人たちが、留学生として同じ教室で学び、そして同じようなアルバイトしているのです。生まれてから育まれてきたものは、消えていなくとも、少なくとも「自分とは異なる『他』」がいることはわかるようになっています。
そういう人たちが地球上には多々存在するということを知るだけでもいい、他者を否定する必要も、肯定する必要もないのです。「ああ、そうか。この人はこう考えているのか」、あるいは「そういう雰囲気の中で生い育ってきた人なのだ」と思えればそれでいいのです。
こういうことに「正しい」とか、「正しくない」とかは存在しません。知ることが大切であり、否定しないことが大切なのです。
でも、面白いですね。数が多い方が、なんとなく他者を圧してしまうのです。とはいえ、バランスを取るのが教師のつとめですから、そのときは私が一言か二言、言葉を足して、さらっと流すようにしていますが。
日々是好日
この辺りはそれほどでもないのですが、例の「豪雨」が、「こっちの方」にもやってきました。避難勧告が出されているところもあり、寝ぼけ眼でたたき起こされ、すぐ避難というのは、なんとも悲しく辛いことことです。すぐに戻れればいいのですが、土砂崩れなどで道が寸断されていれば、それも叶わず、また逃げ遅れて孤立させられても困る。
日本は大雨で四苦八苦しているときに、バリ島では火山の噴火が危険視され、緊張状態が続いています。
日本は、毎日のようにどこかで地震が起こり、地面が揺らいでいますから、人はこの大地に仮住まいしている蟻ん子のような存在であることを少なくとも自覚させられています。偉そうにしている人でも、自分の思う通りにならないことが、ある種の間隔を置いて発生すれば、嫌でもそれに気づくことになる。
人の力の及ばぬことが起こり、それによって幾多の犠牲が出、被害が、時のよっては時の人の想像を遥かに超えた被害が出たりする。
昔の人は、「天」が、そうやって驕り高ぶった人間を懲らしめたのだと言ったのでしょうけれども、当時とて「驕り高ぶった」人というのはほんのわずかだったはず。大半の人は慎ましく自分の生活を営み、そして死んでいった…。
こういう「噴火」や「地震」、「津波」「豪雨」などに、「天」を持ち出されてしまうと、時々、嫌な気がしてしまいます。もしそうなら、裁かれるべきはこれらの人ではないはず。そういった気持ちになるのは、災害に遭われた方たちだけではないでしょう。
さて、学校です。
「バチが当たる」という言葉の説明に、川の神様やら、山の神様、ご神木やらを持ち出すと、キョトンとする者やら、「ソウ、ソウ、同じだ」と頷く者やら、「それは間違いだ」と言い出す者やら、いろいろいます。17人ほどの小さなクラスの中に、7カ国から来た人間がいるのですから、反応も、当然のことながら違ってきます。それが面白い。
以前、中国から来た学生が大半を占めていたころには、こういう話に対しても、紋切り型の反応しかなく、こちらとしても面白くもなんともなかったのですが、国の数が増えれば、それだけ、面白さは増してきます。国が違えば、同じ宗教を信じるといっても微妙に違いますし、時には同じ宗教かと思わされることさえあります。
つまらないことでも何でも、こういうのは「話のきっかけ」になると言いましょうか、考えるきっかけになるとでも言った方がいいのかもしれませんが。
もちろん、そこには、自分と異なる文化、宗教を語る者を誹らない、互いを尊重し合うという暗黙のルールが存在していなければなりません。それゆえ、だいたいこういう「雑談」めいたことから授業を始められるのは、一年半くらいを過ぎないと難しい場合が多いのです。
時々、自分の神様を冒涜されたような気になって、猛る人も出てきます。が、そういう時でも、他の誰かが、間を取り持つようなことを言ったりすればそれで大ごとにはなりません。異国である日本で、1年半ほども共に暮らしていれば、共通体験も少なくなく、一人が「あれが…」といえば、こちらが説明する必要もなく、「ああ、あれか」で通じ合えることもあるのです。
ところが、互いに相知らぬ者同士ですと、そうはうまくいきません。
地球上には、「宗教は麻薬である」と言われながら育ってきた者もいれば、生まれたときから神に囲まれて生きてきた者もいます。そういう人たちが、留学生として同じ教室で学び、そして同じようなアルバイトしているのです。生まれてから育まれてきたものは、消えていなくとも、少なくとも「自分とは異なる『他』」がいることはわかるようになっています。
そういう人たちが地球上には多々存在するということを知るだけでもいい、他者を否定する必要も、肯定する必要もないのです。「ああ、そうか。この人はこう考えているのか」、あるいは「そういう雰囲気の中で生い育ってきた人なのだ」と思えればそれでいいのです。
こういうことに「正しい」とか、「正しくない」とかは存在しません。知ることが大切であり、否定しないことが大切なのです。
でも、面白いですね。数が多い方が、なんとなく他者を圧してしまうのです。とはいえ、バランスを取るのが教師のつとめですから、そのときは私が一言か二言、言葉を足して、さらっと流すようにしていますが。
日々是好日